文禄の役(朝鮮出兵) 1592年
日本の支配者となった豊臣秀吉は明の征服(唐入り)を決意し、陸路で明に侵攻するべく朝鮮半島に上陸した。
海軍力に不安を持つ秀吉は、朝鮮半島を通り陸路、明に侵攻する計画を立て、そのために李氏朝鮮を日本に服属させる交渉を行ったが決裂した。秀吉は1591年8月「唐入り」を宣言、肥前・名護屋城に本陣を置き、一番隊から九番隊まで総勢15万8千人からなる軍勢を編成した。
1592年4月12日、小西行長率いる一番隊が釜山に上陸、その日の内に釜山城を攻略、さらに北上した。5月1日、一番隊は首都漢城(かんじょう・ソウル)を無血で占領、その後5月8日までに八番隊までが漢城入城を果たした。朝鮮国王は漢城を放棄して平壌に移っていた。
日本軍はその後も進撃を続け、6月16日に一番隊が平壌を占領、朝鮮国王はさらに鴨緑江方面へと逃れた。
一方、海上では朝鮮の名将李舜臣が、亀甲船という甲羅のように甲板全体を覆う軍艦を率いて水軍を出動させると制海権を掌握、日本軍は兵糧を運ぶすべを奪われる。そのうえ陸上でも各地で決起した義勇兵がゲリラ戦を展開したため、日本軍の物資の輸送路は寸断された。
ここから戦況は一進一退を繰り返すが、明の援軍が朝鮮入りすると1593年1月5日、平壌を包囲され、日本軍は漢城へ退却した。
さらに明軍は、1月26日、漢城攻略を目指し南下するが、日本軍が漢城城外の碧蹄館で迎撃し明軍を退けた。
この戦闘以後、明軍は厭戦気分に陥り、日本も兵站不足が深刻となっていたため、明と日本の間で講和が締結された。1593年4月18日に日本軍は漢城から撤退した。