三好三人衆と松永久秀の対立
将軍足利義輝を倒した三好三人衆は、足利義栄を将軍候補に据えたが、三好家の実権を掌握する松永久秀と対立するようになる。
この頃の久秀は、筒井順慶から大和を奪って滞在していた。久秀は、もう一人の将軍候補義輝の弟義昭を興福寺に幽閉して監視下に置くが、義輝の側近だった一色藤長や細川藤孝らによって義昭が救出される。
これを機に三好三人衆と久秀の対立が本格化し、三人衆は久秀のいる大和に侵攻した。久秀は居城の多聞山城に籠城し、それから約2年にわたってにらみ合うことになる。
さらにこの間、三好三人衆と、三好家の主である三好義継の関係が悪化。1567年2月、義継は三好三人衆の陣営を脱し、久秀と手を結ぶ。
すると三人衆は再び大和に出兵し、東大寺に陣を構えた。10月10日、久秀は東大寺にこもる三人衆に対して攻撃を行う。このとき大仏殿も焼失した。
その後も両陣営の小競りあいは続いたが、1568年に織田信長が義昭を奉じて上洛したことで両者の対立は終息した。
三好氏は信長により阿波へ追放されたが、その後も再起の機会をうかがっていた。