北条早雲、伊豆の堀越公方を滅ぼす 1491年

2023年4月30日

1491年10月ころ、北条早雲は後の将軍足利義澄に命じられ堀越御所を攻撃して堀越公方を滅亡させ、伊豆国北部を制圧した。

北条早雲 Wikipediaより

1490年当時、伊豆で最大の勢力を持っていたのは堀越公方であった。

その約30年あまり前、鎌倉公方足利成氏と関東管領が対立すると、室町幕府は関東管領を支持した。そのため成氏は下総国古河へ逃走し古河公方として関東を統治する意思を見せた。幕府はこれを認めず新たな鎌倉公方として足利政知を下向させる(1458年)が、成氏の抵抗に遭い鎌倉に入ることが出来ず、手前の伊豆堀越に留まることになる。そこに堀越御所を建設し本拠地としたことから堀越公方と呼ばれることとなった。以来30年あまり、政知が公方を務めた。

政知には茶々丸、清晃、潤童子という3人の男子がいた。茶々丸は先妻の子で、あとの2人は後妻円満院の子であった。
1491年4月、政知が病死すると茶々丸は円満院と公方就任予定だった潤童子を殺し事実上の公方となる。しかし、茶々丸は重臣たちの支持が得られず筆頭家老を斬殺するなどしたため、内紛状態となった。

このとき伊勢宗瑞(北条早雲)は、興国寺城にいた。

早雲は、室町幕府の政所執事を務める名家・伊勢氏の支流の家に生まれ、成長すると将軍足利義政の弟である足利義視の近侍となる。その後も幕府内で出世し、1487年には9代将軍足利義尚の奉公衆にまで取り立てられている。その間、二度にわたり駿河今川家のお家騒動を収めるなど活躍し、その功績から今川家より興国寺城を与えられた。

足利義澄(政知の次男=清晃、後の将軍)は、母と弟の敵討ちとして、伊豆国の隣接地である興国寺城を治める早雲に、茶々丸の討伐と堀越御所の破却を命じる。

そして、1491年10月ころ、早雲は堀越御所を攻撃して茶々丸が逃亡したことにより堀越公方を滅亡させ、伊豆国北部を制圧した。

堀越公方を滅ぼした後、韮山城(伊豆の国市)に入って、そこを新たな居城とした早雲は、幕府より伊豆国守護職が与えられ守護大名として生きることとなった。

こうした早雲による鮮やかな国盗り物語は、戦国大名の端緒となった。



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Posted by kojiro