山城の国一揆 一揆指導者による自治支配を確立 1485年
1485年12月、南山城で地侍・名主を中心に一般農民が加わって起こした一揆。
1467年に始まった応仁の乱は1477年に終息していたが、南山城では、なお畠山政長・義就両軍による戦闘が続いていた。
両軍は宇治川を挟んで対峙したまま、戦況は膠着状態に入っていたため、農民は繰り返し人夫や兵粮米が徴収され、田畑も荒らされた。
このような状態に苦しめられた地侍や一般の農民たちは共同し、両軍に南山城から撤退するように申し入れた。この申し入れは、下は15歳から上は60歳までの国人が集会し、国中の土民が結集する形で決められたという。
この集会では、ほかに寺社領の還付、新関(しんせき)の撤廃などの要求を決議し、両軍を撤退させた。そして三十六人衆(一揆指導者)による自治支配を打立てた。
しかし、一揆の中心となった地侍たちは、次第に畠山義就に通じる者と、畠山政長に与した細川氏方とに分裂し、1493年伊勢氏の山城国守護就任を認めることによって、約8年間続いた自治支配は崩壊した。