応永の乱 大内義弘の幕府に対する反乱 1399年

2023年4月30日

1399年に、守護大名の大内義弘が室町幕府に対して起こした反乱。

室町幕府は有力守護大名の連合で支えられており、将軍の権力はさほど強いものではなかった。
そのため、3代将軍足利義満は、大きな勢力を持った有力守護大名の弱体化を図り、数々の権謀術数を弄した。

1379年に細川氏と斯波氏の対立を利用して、管領・細川頼之を失脚させ、1389年に土岐康行を挑発して挙兵させ、追討軍を派遣して康行を降伏させる。
1391年には11カ国の守護を兼ねた大勢力の山名氏の内紛に乗じて、幕府に対し反乱を起こすように仕向け山名氏を没落させた。

こうして次々と有力守護大名を排し、南北朝合一も果たした義満にとって、次に恐れを抱いていたのが大内義弘だった。

義弘はそれまでの功績から長門・豊前・周防などの西国、計6か国の太守となっており、さらに本拠地が大陸と近い地理を活かして朝鮮との貿易を営み巨万の富を蓄えていた。

1397年に義満が北山第の造営を開始し、諸大名に人数の供出を求めた際、義弘は戦で将軍に仕えるという武士としての矜持からこれを断る。ここから両者の緊張が高まっていく。

こうした中、幕府による九州の少弐氏や菊地氏の討伐戦が行われた。この時、義弘も九州に入り幕府軍とともに戦い、戦勝に導くが、その戦に乗じて幕府が大内討伐を画策しているとの噂が耳に入る。過去の義満による数々の守護大名討ちを討伐側の当事者として見てきた義弘は、幕府に対する疑念を募らせていき、終戦後もそのまま九州に留まっていた。

義弘は義満から再三にわたり上洛を促され堺まで上るが、義満に対する不信感からあくまで上洛を拒否する。

追い込まれた義弘は、ついに義満との対決を決断する。鎌倉公方足利満兼と密約を結び、義満によって没落させられた土岐・山名・京極の各氏、さらには旧南朝方にも挙兵を呼びかける。そして1399年10月、義弘は弟・弘茂とともに5千の軍勢で堺に城砦を築き籠城した。応永の乱の始まりである。

3万を超す幕府軍は、12月21日、火攻めによる総攻撃を行い、2か月に及ぶ籠城戦を制した。城は落ち義弘は討死にした。

この反乱の鎮圧によって義満は有力守護の勢力削減に成功し、対外貿易の主導権も得て、権力基盤を完全に確立することになった。

応永の乱は、義満の権力強化策に協力して武功を立て、さらに南朝との仲介役を務めて、南北朝合一にも尽力したにもかかわらず、功を立てすぎ、さらに領国を増やしすぎたことが、有力守護大名を危険視する義満に目をつけられた大内義弘の悲劇だった。

しかし、乱の後、義弘の後継者たちは、より強力な大名になり、幕府からも重用される存在になった。



室町・織豊

Posted by kojiro