中先代の乱 北条時行 1335年

2023年4月30日

1335年、北条高時の遺子の北条時行が鎌倉幕府再興を企て、足利直義を破って鎌倉を占拠したが、足利尊氏に鎮圧された事件。

足利尊氏 Wikipediaより

尊氏はこれを機に建武政府と離反した。鎌倉時代の北条氏を「先代」と呼んだため、その再興を図った時行を「中先代」と称した。

後醍醐天皇の建武政権(1333ー1336)は、その専制的な運営から多くの反発を招き、1335年頃から九州や南関東などで旧北条勢力の反乱が起こっていた。同年6月には京都でも反後醍醐の陰謀が露見する。首謀者は権大納言西園寺公宗であった。天皇から冷遇されていた公宗は、北条得宗の一門に再び天下を取らせて自らは朝廷の執政になろうとして、後醍醐天皇の暗殺を企てたとされる。しかしこれは公宗の弟・西園寺公重の密告によって知られるところとなって公宗は捕まった。

その約1か月後の7月には、公宗と呼応するはずであった北条高時の遺児・北条時行が信濃国で諏訪頼重と共に挙兵した。諏訪氏は北条氏譜代の家臣であったことから鎌倉の陥落後には時行を庇護していた。

時行軍は、信濃府中から上州、さらに武蔵国に攻め入った。その間各地から武士が集まり、大きな武士団を形成した。勢いに乗った時行軍は、戦勝を重ねついに鎌倉に入り、成良親王を奉じ鎌倉にあって関東を治めていた足利直義軍を一掃して鎌倉を制圧した。

しかし、時行の鎌倉支配も尊氏の巻き返しで、わずか20日間で瓦解する。以後、時行は敗走し、諏訪頼重とその子らは自害して中先代の乱は終息した。

この時の尊氏は、時行軍追討のために征夷大将軍および諸国総追捕使への任官を後醍醐天皇に求めたが認められず、尊氏は後醍醐天皇の許可を得ないまま進発している。鎌倉入りした尊氏は、再三にわたる後醍醐天皇の帰京命令に従わず鎌倉に留まり、足利政権樹立の第一歩を踏み出した。

室町・織豊

Posted by kojiro