日比谷焼打ち事件 ポーツマス条約に反対する民衆暴動 1905年
1905(明治38)年9月5日、日露講和条約(ポーツマス条約)に反対する民衆暴動。条約の調印日に起きた。
日露戦争は、20万人もの死傷者を出し、加えて莫大な戦費を費やした戦争だった。それでも戦争中は、相次ぐ戦勝の報道に多くの国民は快哉を叫び、各地で提灯行列や戦勝祝賀会が開かれていた。
こうした熱狂は、多大な犠牲を強いられながらも戦争に協力してきた日本国民に講和条件への過大な期待を抱かせた。
ところが日本政府が調印した条約の内容は、賠償金を放棄し、領土割譲は南樺太のみというものだった。
多くの新聞は政府を攻撃して講和条約破棄・戦争継続を主張し、条約反対を叫ぶ多数の群衆が、政府高官邸・交番・警察署・教会などを襲った。
政府は戒厳令を発布し軍隊を出動させて、これを鎮圧した。死者17人、負傷者2000人、検挙者2000人に及ぶ大きな騒擾であった。
参加者の多くは職工、職人、人足など戦争のしわ寄せをもっとも受けた都市無産大衆であった。