足尾鉱毒事件 田中正造 1891~1907年 

2023年5月1日

1891(明治24)年、古河鉱業足尾銅山(栃木県)の鉱毒が渡良瀬川流域の農漁業に深刻な被害をもたらした公害事件で、その後15年余りにわたって社会問題となった。

田中正造 Wikipediaより

当時の銅山は明治維新以降、富国強兵・殖産興業に力を入れる政府にとっての貴重な資金源となっていた。

その中でも足尾銅山は、1877(明治10)年、古河市兵衛が政府から買収し民営化した後、生産量を急増させ明治中期には国内生産量の40%以上を占める有力な銅山となっていた。

この飛躍的な発展に伴って、下流の渡良瀬川流域の農業・漁業に鉱毒被害が現れた。特に1890(明治13)年の洪水による被害は、農民を鉱毒反対運動へと駆り立てた。

また1891(明治14)年第2議会において、栃木県選出の衆議院議員田中正造は、政府の鉱山監督行政の怠慢を批判した。

その後反対運動は日清戦争等のために一時中断したが、1896(明治29)年、再び大洪水による被害が発生し、田中の指導の下で「対政府鉱業停止運動」として再組織された。

1897(明治30)年、数千の被害農民が大挙して上京した「押出し」によって鉱毒問題は社会問題化した。政府は古河に対して鉱毒予防工事命令を下したが、操業を停止させることはなかった。

1901(明治34)年12月、田中は議員を辞職し天皇への直訴を試みたが失敗に終わる。

政府は、1907(明治40)年、最終的な「鉱毒処分」を行うために第二次鉱毒調査会を設置し、鉱毒問題を治水問題へとすりかえ、再三洪水に襲われていた谷中村を廃村にし、同村の地域一帯を調整池とすることで当面の解決と運動の鎮圧を図った。

次いで良瀬川改修工事に着工、田中の死などによって鉱毒問題は表面上終わりを告げた。

しかし汚染源対策が不十分なため、鉱毒被害も足尾山地の荒廃もやむことはなかった。

明治・大正

Posted by kojiro