簡潔「比企能員の乱」 北条時政が比企能員を滅ぼす 1203年
幕府執権北条時政が、幕府内で勢力を強めた比企能員を滅ぼした事件。
1203年7月に将軍源頼家が病に倒れ重篤になったため、幕府では評定により、将軍家の家督継承の措置がとられた。
日本国惣守護職および関東28カ国の地頭職が頼家の嫡男一幡(生母は比企氏の女)に、関西38カ国の地頭職が頼家の弟実朝に与えられることになった。
その後この措置に不満を持った比企能員(一幡の外祖父)が、実朝とその外戚の北条氏を滅ぼそうと企て病床の頼家に承諾される。
ところが両者の密談を政子が立ち聞きし、知らせを受けた時政が先手を打ち、9月2日、能員を自邸に呼び出し殺害した。直後に比企一族は一幡とともに小御所に立て籠り、北条義時率いる幕府軍との死闘の末敗れ滅亡した。
以上が一般に語られる比企能員の乱だが、現在では疑問点も指摘されている。
すなわち、事件のわずか5日後に実朝が後任の征夷大将軍に任命されていることは手回しが良すぎるし、政子が障子を隔てて能員の時政追討計画を知ったというのも不自然である。さらに小御所襲撃も手際が良すぎる点などを考え合わせれば、この事件は比企氏の反乱ではなく北条時政による比企氏転覆のためのクーデターということになる。
北条氏の比企一族滅亡計画は用意周到に練られて実行されたという見方が有力である。