簡潔「後三年の役」奥州清原氏の内紛 1087年
前九年の役の後に勃発した奥六郡の郡主清原氏の内紛を、源義家と藤原清衡が連合して平定した合戦。
前九年の役で安倍氏が滅亡し、清原氏の清原武則が出羽・陸奥国一帯を治めていた。その後清原氏の当主は、武則の息子・武貞、さらに嫡子真衡へと継承されていった。
武貞の死後、真衡が実権を握り奥六郡の郡主の座に就くと、真衡は従来の同族連合体制から嫡宗単独支配体制への移行を目指し専制的な運営を行った。こうした真衡の支配体制は次第に内部の派閥対立へと発展する。
当時の清原氏一族の中に、真衡の異父兄清衡や真衡の弟家衡がいた。清衡と家衡は連合して真衡に対抗し兵を挙げたが、陸奥守に任命されたばかりの源義家が介入し、真衡に加勢したため、清衡・家衡連合は敗れる。ところがこの戦の最中に真衡が病のために死亡した。
真衡の死後、義家がその所領の裁定を行うが、その内容を不満とする家衡が清衡を攻撃し内紛は再び武力衝突となった。1087年、義家・清衡連合軍が家衡を破り、ようやく内戦が終息した。
この合戦の後、清衡は実父の藤原姓を名乗り、奥羽両国の押領使と鎮守府将軍を兼ねて、以後の平泉を中心とする藤原氏三代(清衡・基衡・秀衡)の栄華の基を開いた。
源義家は奥州平定による恩賞を朝廷に願い出るが、朝廷はこれを同族間の私闘に過ぎないとして退けた。このとき義家は私財をさいて戦闘に参加した東国武士に恩賞を与えている。そのために、東国武士の義家に対する忠誠心は高まり、多くの武士が義家と主従関係を結んだ。
この役ののち、源氏が武士の棟梁として東国に勢力を確立した。
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