モリソン号事件 異国船打払令に基づき砲撃 1837年
1837(天保8)年、アメリカ船モリソン号が、漂流民7名の返還と引換えに、通商と布教を求めてマカオから浦賀沖に来航した。これを浦賀奉行所が異国船打払令に基づき砲撃し退去させた事件。
モリソン号は非武装で、しかも遭難した日本人を保護していた。しかし、浦賀奉行所はモリソン号をイギリス軍艦と誤解し砲撃したのである。退去したモリソン号は、薩摩に向かい山川港に停泊したところをここでも砲撃を受ける。日本との交渉を諦めたモリソン号はマカオに引き返した。
翌1837年、オランダ商館長が提出したオランダ風説書で、モリソン号が、イギリスの軍艦でなくアメリカの商船であることや日本人の漂流民が乗船していたことなどを知った幕府は、打払政策に関する評議を行った。
その様子が旗本らによって民間に伝わり、高野長英は「戊戌夢物語」を著して、モリソン号打払いの無謀さを批判した。また渡辺崋山も「慎機論」の中で、西洋事情に通じることの重要性を説いた。これが後に蛮社の獄を引き起こす原因となった。