英軍艦フェートン号事件 オランダ商船を収奪する目的 1808年
1808(文化5)年、英軍艦フェートン号がオランダ商船を収奪する目的で、オランダ国旗を掲げ長崎港に侵入した事件。
当時長崎では、オランダの交易船が入港すると荷揚商品の取引が行われ、警備の兵士のほかに、多くの商人・町民たちが行き交い町が活気づく。それが通常の夏から秋にかけての風景だった。しかしこの年、夏が過ぎてもオランダ船の入港はなかった。
一方イギリスは、ナポレオン戦争によりフランスに併合されていたオランダと交戦国の関係にあり、東南アジアの蘭領植民地を侵略していた。フェートン号の長崎来港は、こうした情勢を背景として、オランダ商船を収奪することが目的だった。
フェートン号の掲げるオランダ国旗を信じた検使の役人や通詞、オランダ商館員2名らは、恒例に従って検査のため来船に出向いたところを拉致され、商館員2名が人質となった。艦長ペリューは尋問により蘭船の不在を知ったが、なおもその夜港内を捜索した。
長崎奉行松平康英は直ちに戒厳令を敷き、長崎防衛を受け持つ肥前・筑前の2藩に英艦焼討の準備を指令した。こうした中、ペリューから食料と水の供給があれば人質を解放するとの知らせがあり、奉行はこれを受け入れ、食料と薪、水を提供して人質を釈放させた。
フェートン号も退去し事なきを得たが、この事件の責任を取って奉行松平康英は自決した。