リーフデ号漂着 ウィリアム・アダムス(三浦按針)1600年
日本に到着した最初のオランダ船。1600(慶長5)年3月、豊後臼杵(現大分県臼杵市)に漂着した。関ケ原の戦いの半年前のこと。
世界史的な時代でいえば、スペインやポルトガルが先鞭をつけた大航海時代も末期の頃、リーフデ号を含む5隻のオランダ船が船団を組み、東洋を目指した。
目的は、東アジアとの交易だった。船団は南米南端のマゼラン海峡を通って、太平洋に入り東洋を目指したが、途中嵐などに遭い、日本に到着(漂着)したのはリーフデ号のみで、110人いた乗組員のうち、生存者はわずかに24人。その中に、イギリス人航海士ウィリアム・アダムス、オランダ人航海士ヤン・ヨーステンらがいた。
豊臣政権下で実権を握る徳川家康は、彼らをその知識から優遇した。当時日本との交易相手は主にポルトガル人であり、その利権を豊臣氏や西国大名らも握っていた。
家康はそれに対抗するために、日本との貿易を許可する朱印状をヤン・ヨーステンらに与えた。彼らは手広く貿易を営み1609(慶長9)年、平戸にオランダ商館が開設され、日蘭間の貿易が発展していく礎となった。
ヤン・ヨーステンはその後、江戸城の内堀内に屋敷を賜って日本人女性と結婚した。ちなみに彼はその名から「耶楊子(やようす)」と呼ばれ、屋敷があった場所が現在の八重洲の地名となった。
ウィリアム・アダムスも家康に信頼され、外交顧問として活躍するとともに、数学や航海術などの知識を伝えた。その後アダムスも日本人女性と結婚し、250石取りの旗本に取り立てられた。与えられた知行地である三浦半島と水先案内人という本来の職務により、「三浦按針」と称された。