薩英戦争 1863年
1863(文久3)年、薩摩藩とイギリス艦隊との間で行われた戦争。戦後、両者は講和に向かう。
前年の生麦事件にイギリスは怒り、幕府と薩摩藩に対して抗議を行うとともに賠償を要求した。幕府は賠償金を支払ったが、薩摩藩はイギリスの要求する犯人の引き渡しや賠償金の支払いなどに応じなかった。
そこでイギリスは、6月28日艦隊7隻をもって鹿児島湾に侵入して、武力を背景に薩摩藩と交渉を始めたが薩摩藩が回答しなかったため7月2日、イギリス艦隊は鹿児島に砲撃を加えた。ここに、イギリスと薩摩との間で戦闘が開始された。
薩摩はイギリス艦隊のアームストロング砲の砲火を浴びて城下町の1割を焼失し、イギリス艦隊も薩摩の陸上砲台からの一斉砲撃などで大きな損傷を受けた。
このように双方とも打撃を受けた後に薩英は講和に向かい、同年11月、薩摩藩が賠償金の支払いや犯人の逮捕を約束して講和が成立した。この戦争を通じて、薩摩藩は外国の兵器の力を目の当たりにして、攘夷の不可能を自覚し開国に藩論を転換していく。一方、イギリスも薩摩藩の実力を評価したため以後両者は接近していくことになる。