ペリー来航(浦賀) 1853年

2023年4月30日

1853(嘉永6)年7月、ペリーが率いるアメリカ海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航した。

ペリー Wikipediaより

「太平の眠りを覚ます上喜撰たった4杯で夜も眠れず」

背景

当時の日本は、鎖国政策を敷いていたが厳密にいえば、完全に国を閉じていたわけではなく、長崎で清やオランダと貿易をしていた。また対馬・松前・薩摩を通じて、朝鮮やアイヌ、琉球とも交易を行っていた。

18世紀末期のロシア船の来航を皮切りに、徐々に欧米列強が、日本との通商や捕鯨船の寄港地を求めて、日本に接近してくるようになる。これに対して幕府は1825年に異国船打払令を発し、外国船を追い払う方針で臨んだ。しかし1842年、清がアヘン戦争でイギリスに敗れるなど、列強の圧力は次第に強まりつつあった。

こうしたなか、1846年にアメリカの東インド艦隊司令官ビッドルが、浦賀に来航し公式に開国を要求したが、幕府はそれを拒否し、ビッドルを退去させた。

目的

ペリー来航の目的は、日本を捕鯨船の拠点とすることだった。当時、豊かな鯨の漁場だった北太平洋で捕鯨拡大を目論むアメリカは、その基地として日本に注目した。同時にアメリカは、清への進出において英・仏・蘭に先を越されていたため、英・仏がまだ進出していない日本に着目し、日本を清との貿易の足場としたい意図もあった。

経緯

ペリーは1853年7月、浦賀に来航し幕府との交渉を開始する。ペリーが来航地を浦賀にしたのは、日本に武威をもって開国を迫るためであった。ペリーは交渉に当たって、日本が大統領の国書の受取りを拒否すれば、江戸に上陸して直接将軍に面会すると役人を威圧している。

これに対して、浦賀奉行所の与力中島三郎助は、近代国際法である「万国公法」を盾に、江戸湾に許可なく進入することは認められないと応酬した。

一方江戸城中では、ペリー来航を受け、老中阿部正弘が、それまでの方針を変えて朝廷への報告を行い、諸大名、旗本から庶民にまで幅広く意見を求め、挙国的に対策を立てようとした。

当時は攘夷論が優勢で、各藩に軍艦の建造を奨励、オランダに軍艦を発注し、江戸湾に11ヶ所の台場を造営するなど、相次いで手を打った。しかし、アメリカの脅威を感じた幕府は国書を受け取る。ただ幕府が回答のために1年の猶予を求めると、ペリーは一旦日本を退去する。

しかし1年を待たず半年後の翌1854年2月、ペリーはあらためて浦賀に来航した。そこで日米和親条約が締結され、日本はアメリカと国交を結び、開国するに至った。

江戸

Posted by kojiro