平氏、南都焼打ち 平重衡 1181年
平重衡が1181年、平清盛の命により東大寺・興福寺を焼き払った事件。このとき、東大寺の大仏も焼け落ち、両寺の堂塔伽藍は一宇も残さず焼き尽くされ、多数の僧侶が焼死した。
源頼政・以仁王の決起以降、源義仲の木曽での挙兵、さらには源頼朝との富士川での戦いに平氏は敗れ、平氏一門は窮地に立たされた。そこで、局面打開策の一環として、南都攻略が企図された。
東大寺は、聖武天皇の発願によって建立され国家鎮護の象徴的存在として、歴代天皇の崇敬を受けてきた。また興福寺は、藤原氏の氏寺である。こうした両寺はそれぞれ皇室と摂関家の権威を背景に、元来、自衛を目的として結成されていた大衆(だいしゅ)と呼ばれる武装組織=僧兵の兵力を恃みとし、平氏政権に反抗していた。清盛としては寺社の格の区別なく、平氏の威光を天下に示す必要があった。
この事件を契機に、好意的だった他の寺社勢力も離反し、平氏は孤立を深めた。そして、源氏との間で「一の谷の戦い」「屋島の戦い」「壇の浦の戦い」と坂を転げ落ちるように平氏は負け続け、滅亡の道をたどった。