明応の政変 家臣が将軍を廃するクーデター 細川政元 1493年

2023年4月30日

1493年に、幕府管領・細川政元が10代将軍足利義材(よしき)を失脚させ、足利義澄を第11代の将軍に擁立した事件。家臣が将軍を廃するという前代未聞のこの事件は、細川政元によるクーデターであった。

細川政元 Wikipediaより

1489年3月、9代将軍足利義尚が没すると義尚に子がなかったため、将軍継嗣問題が浮上する。前将軍義政の正室富子は、義政の弟義視の子・義材を就任させた。

政元は、義材の父・義視が応仁の乱で初めは政元の父・細川勝元の支持を受けながら敵軍(山名氏)に鞍替えした経緯などから義材の擁立に反対し、義澄を次期将軍に推していた。

1493年将軍義材は、応仁の乱より続いていた畠山氏の内部抗争に介入し、畠山基家(義就の子)を討伐するため、畠山政長とともに河内に出陣した。この機に乗じ政元は、義澄を奉じて挙兵する。

京都を制圧した政元は次いで河内に向かい、政長を討つとともに義材を捕え、竜安寺に幽閉した。

翌1449年、義澄が将軍職に就くと、政元は管領として幕政の実権を掌握、『半将軍』と称されるほどの権勢を振るうことになる。

この頃は戦続きの時代だったが、それでも家臣が主人を追放する事はなかった。細川政元はそれを行った最初の人物いうことになる。これを下剋上の本格化と捉え、応仁の乱をもって戦国時代の始まりとするよりも、最近ではこの明応の政変から戦国時代が始まったと解釈する研究者も多い。

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Posted by kojiro