慶長の役 (朝鮮出兵)1597年
1597(慶長2)年1月、文禄の役のあとに再び朝鮮半島で行われた戦役。豊臣秀吉の死後、全面撤退した。
第1回目の朝鮮出兵(文禄の役・1592年)のあと、明とのあいだで講和交渉が重ねられた。交渉では、日明双方の交渉担当者の手によって、講和を結ぶためにそれぞれ「偽の降伏文書」が作成され、秀吉は明降伏、明の皇帝は日本降伏という報告をそれぞれ受けていた。
1596年9月1日、秀吉は大坂城で明の使節を引見した。2人の使節は、明皇帝からの国書、封王の金印と冠服を秀吉に捧げた。この段階では、国書はまだ読まれていない。翌日、秀吉は2名を大坂城で饗応し、酒宴のあと明皇帝からの国書を僧・承兌に読ませたところ、「特に爾を封じて日本国王と為す」とあり、日本が明の冊封下に入ることが示されていた。これに秀吉は激怒し、再度の出兵を決意する。
1597(慶長2)年1月、秀吉は14万の大軍を朝鮮半島に送り込み「慶長の役」が始まった。
7月15日に藤堂高虎・小西行長・島津義弘らの軍が、元均の率いる朝鮮水軍と戦い、これに勝利し全羅道南部の制海権を掌握した。上陸後の日本軍は二手に分かれ、各地へ兵を進めていった。
第一の標的は、全羅道の制圧だった。全羅道は文禄の役において住民のゲリラ戦に遭い、苦しめられた地域であった。
一方、日本軍再侵攻の報を受けた明は、朝鮮支援のために再び軍を派遣し、全羅道攻防の要となる南原付近の防備を固めた。日本軍は各所を激しく蹂躙しながら軍を進め、8月15日、明の防御を突破し全羅道の南原城を陥落させた。
以後も各地で激しい戦闘が繰り広げられたが、次第に厭戦気分が高まっていく。それは、甚大な被害を出しながらも実益に乏しく、さらに杳として先の見通しが立たない虚しさだったかも知れない。長引く戦闘を戦う明・朝鮮連合軍もそれは同じであった。
1598年8月、秀吉が病死する。それは苦難と損失の大きい『唐入り』への大義名分が失われたことを意味した。
秀吉の死は暫く隠されていたため、その後も戦闘は続いたが、10月15日、秀吉の死を秘匿したまま秀吉政権の五大老が撤退命令を出した。そして、11月20日に島津義弘の軍勢が巨済島を離れたことにより全面撤退となり、慶長の役は終わりを告げた。
慶長の役とは、終戦を宣言する講和条約を結ぶ間もないままに撤兵し、朝鮮とは国交断絶となり、朝鮮各地に戦いの爪あとを残し、多数の人を無残に殺しただけの戦争だった。
また、休戦と交渉を挟んで朝鮮半島を舞台に戦われたこの国際戦争は、16世紀における世界最大規模の戦争であったといわれる。
秀吉の画策した『唐入り(明征服)』の構想は、明に実際に侵攻する前段階で朝鮮半島において無残に断絶させられる結果となり、秀吉の死去により日本は江戸幕府の鎖国体制へと大きく舵を切り替えることになる。
【補説】
前後7年にわたった朝鮮出兵は日本・朝鮮・明の三国にさまざまな影響を与えた。
日本では豊臣政権が衰退の一途をたどった。また、石田三成、小西行長ら「文治派」と加藤清正、福島正則、黒田長政ら「武断派」の確執が深まり、この対立感情が関ヶ原の役にまで影響を及ぼした。
朝鮮を救援した明は、国力が衰え女真(後の清朝)に滅ぼされることとなった。
また朝鮮にとってこの戦争は、国土が蹂躙され、罪のない人々が殺戮・略奪に遭い、さらには捕虜として日本に連行されるなど、朝鮮の人々に大きな傷跡を遺した。秀吉の朝鮮出兵は朝鮮民族のあいだで「壬辰の悪夢」として語り伝えられているという。