豊臣秀吉、小田原を平定 北条氏政・氏直 1590年
1590(天正18)年、豊臣秀吉が小田原を本城とする北条氏政・氏直父子を攻撃し滅亡させた戦い。
小田原北条氏は室町末期、伊豆の堀越公方を襲い、その後伊豆一国を平定した伊勢新九郎長氏(北条早雲)を祖とし、以来5代100年にわたって関東と伊豆一帯を制覇した戦国大名であり、東国に盤石な基盤を築いていた。
すでに四国・九州も平定して全国統一を目前にしていた秀吉はしばしば上洛を促すが、氏政らは応じようとしなかった。
秀吉は1589(天正17)年末、天下に北条討伐を命じる。西国の大名や水軍をも動員し、関東の北条氏の支城を次々と落としていき、本城小田原城に迫った。
秀吉は、1590(天正18)年3月、自ら小田原城を望む早川対岸の石垣山に本営を構え持久戦に入り、籠城策をとる北条氏を陸海から包囲した。
北条氏はこれに対する善後策を評議するが容易に決せず(後世、これを「小田原評定」という)、その間秀吉方へ内応するものも多く現れた。
3月末から約100日に及ぶ持久戦により、北条氏の士気は下がり、重臣らの内応もあったため、6月末ついに北条氏は降伏した。秀吉は、氏政と弟氏照を自害させ、当主氏直を高野山に追放した。これにより北条氏は滅亡した。
戦後秀吉は、北条氏の旧領をすべて家康に与え、駿河、遠江、三河の旧領から絶縁させて江戸に移らせた。