本能寺の変 明智光秀が主君・織田信長を弑逆 1582年
1582(天正10)年6月、明智光秀が京都本能寺に滞在中の主君織田信長を襲撃、殺害した事件。
1582(天正10)年6月2日早朝、明智光秀は、織田信長の命により羽柴秀吉の毛利攻めの援軍として、備中に向け約1万3千から2万の軍勢を引き連れ、居城の亀山城を出発した。
しかし、途中急遽進路を京方面に変更し、夜明け前、本能寺に宿泊していた信長を襲撃、続いて妙覚寺にいた嫡男信忠を襲撃し共に殺害した。
当時、信長は中部地方のほぼ全域と近畿を手中に収め、全国随一の勢力を作り上げていた。しかしなお、北陸では柴田勝家が上杉謙信、中国地方では羽柴秀吉が毛利輝元、関東では滝川一益が北条氏政と対峙していた。さらに長宗我部元親討伐のための四国侵攻も計画するなど、九州・東北を除く多方面で勢力拡大を図っていた。しかし、毛利氏攻略に自ら出陣するために、わずかな供回りのみで京都の本能寺に滞在していたところを奇襲に遭った事件だった。信長にすれば、一瞬見せた隙を衝かれた形となった。
この時、後継者である信忠が信長とともに討たれ亡くなったことが、信長政権にとっては致命的であり、その後の秀吉による天下取りにつながっていく。