簡潔 織田信長、比叡山を焼打ち 1571年

2023年4月30日

1571年、織田信長が敵対する浅井・朝倉方を匿った比叡山を焼打ちした事件。

姉川の戦い(1570年6月)に敗れ一旦退いていた浅井・朝倉両氏は、信長が摂津国で本願寺(一向一揆)と戦っているときに、反撃の兵を挙げた。

この時、比叡山延暦寺は、自発的に浅井・朝倉方に味方する。両氏は比叡山に籠城し、摂津から戻った信長軍と対峙した。

当時の比叡山は単なる寺社ではなく、武装した僧兵を擁する軍事基地という一面を持っていた。さらに武力と権威を盾に様々な利権を手にしており、大名の争いにも介入してくるなど、延暦寺は統治者としては厄介な存在であった。

そんな比叡山が信長の敵である浅井・朝倉を匿い、両氏の連合軍に対して、比叡山を軍事拠点として提供したのである。

信長は、延暦寺に対して、浅井・朝倉の支援を辞め、中立の立場に立つように、と何度か呼び掛けたが、延暦寺はこれを拒絶した。「この条件を受け入れなければ、全山を焼き払う」という信長の警告にも延暦寺は応えなかった。

翌1571年9月30日、遂に信長は3万の大軍で比叡山を囲み、焼打ちを敢行した。

根本中堂を含める21の堂宇が焼き払われ、僧兵・学僧、付近の住民、女・子どもの非戦闘員を含める約3千人を殺戮した、といわれている。これにより、宗教的権威を背景に、関所・土倉など様々な利権を獲得し、強大な武力を誇った延暦寺の勢力は徹底的に殲滅された。

【補説】
近年の研究から、延暦寺の地質調査をしたところ、「信長が焼き討ちをしたという年代の焼け跡が発見されなかった」という結果が出ている。このことから、様々な説が唱えられることとなった。

⓵焼き払ったのは、比叡山ではなく麓の坂本の町だった。

②比叡山に火をつけたが、その範囲は僧兵がたむろしていた砦のような場所だけで、他の宗教施設には火をつけていない、等。



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Posted by kojiro