金ヶ崎の戦い 織田信長の撤退戦 1570年
1570年、織田信長は上洛を拒否する越前の朝倉義景討伐のために戦うが、浅井軍に背後を衝かれ挟撃される形となったため、京に逃げ帰った。
織田信長は足利義昭を奉じて1568年9月に上洛し、義昭を室町幕府15代将軍に据えた。
義昭は信長のことを「武勇天下第一」と称えたが、信長は義昭の風下に立つ気はなく、副将軍就任を拒否する。さらに義昭の行動を制限して独自に畿内支配を進めた為、義昭は信長の傀儡にすぎないことに気づいていく。
信長は将軍の威光を利用して、越前の名門朝倉義景に対して上洛を促したが、義景はこれを拒んだ。
1570年4月20日、信長は、義景に叛意ありとして、徳川家康との連合軍で朝倉氏討伐のため朝倉氏の本拠地である一乗谷に侵攻した。
信長軍が朝倉氏の支城金ヶ崎城を攻略中に、妹の市を嫁がせて同盟していた北近江浅井長政が裏切り、信長の軍勢の背後に付いた。
こうして朝倉と浅井に挟撃され、前後から攻め立てられた織田軍は壊滅した。信長は撤退を決断し身一つでかろうじて京都へ逃げ戻っている。この時、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が殿(しんがり)を務めたといわれる。