三好長慶による京都支配 最初の統一政権 1549~68年
三好長慶とその一族は、1549年から織田信長入京の1568年まで中央で政権を担った。それは信長に先立つ統一政権だった。
応仁の乱後、室町幕府は衰退したが崩壊には至らず、局地政権として畿内周辺に存続していた。その時幕府を実質支配していたのは、管領細川氏だった。細川支配は、政元・高国・晴元の3代約80年間に及ぶ。
三好長慶は細川晴元の重臣だったが、1549年、晴元を追放し政治の実権を握り、三好政権を実現させた。この頃、信長はまだ家督を相続すらしていない、いわば何者でもない時代だった。
長慶は、管領・細川晴元の重臣で阿波・芝生城主である三好元長の嫡男として生まれた。
細川晴元の重臣だった父の三好元長は、忠誠心を疑われ晴元の策謀によって三好政長らが扇動する本願寺の一向一揆に巻き込まれ自害に追い込まれた。
元長の死後、嫡男長慶は一旦阿波に帰るが、謀反の疑いを避けるため晴元に服属する。その後、長慶は晴元や政長との間で離反や帰参・和睦を繰り返しながら勢力を拡大していく。
そして1548年、政長の摂津国池田家への介入を機に、長慶は政長排斥のための反乱を起こす。この事件は晴元に対する謀反へと拡大していった。政長は討死に、晴元は長慶の追撃を恐れ13代将軍足利義輝とともに逃亡した。これによって1527年より幕政を担ってきた晴元政権は崩壊し消滅することになる。
晴元を追放した長慶は、晴元に実父と養父を殺されていた細川氏綱を擁立し、晴元派の摂津伊丹城を落とし摂津国を平定する。長慶は将軍義輝と和睦して、細川家の家督を晴元から氏綱へと移させる。これによって氏綱が正式な管領となった。長慶は将軍義輝と管領氏綱を傀儡とし実権を握り三好政権を実現させた。
【補説】
三好長慶は文武に極めて高い能力を持った人物だったといわれている。将軍・管領を傀儡とし畿内を制し、その影響力は山城・丹波・大和・和泉・淡路・讃岐・播磨をはじめ、近江・河内・伊賀・若狭にまで及んだ。群雄が虎視眈々と覇道を狙う下剋上の先駆者であり、最初の天下人となった大名であった。
一方、万葉や古今の歌に通じ、連歌の技も、万人が認めるほどのものだったという。
敵討ちも含めて戦いに次ぐ戦いを繰り返した長慶だが、相手を最後まで追い詰めずに和睦をはかることが多かった。教養人としての素質が、非情に徹しきれない側面を見せていたとの指摘もある。このことをもって長慶を優柔不断な凡庸な人物と断じるには、いかにももったいない。