南北朝の合一 足利義満 約60年に渡る皇統分立の時代が終わる 1392年

2023年4月30日

多くの守護大名を、その強権をもって廃してきた足利義満が1392年、南朝の後亀山天皇を京都に迎え、北朝の後小松天皇へ三種の神器が譲られたことによって南北朝の合一が実現した。

足利義満 Wikipediaより

土岐・山名・細川・斯波といった幕府にとって危険な守護大名を、権謀術数を弄して制してきた義満だったが、南北朝の対立は依然として残されていた。

亡命政権である南朝は、軍事的にも壊滅状態にあり、恐れるに足らない存在であったが、皇位の象徴である三種の神器が北朝に返還されなければ、いつまでも内乱の危険性がつきまとう。

そして、大内義弘の仲介で南北朝の和平会談が開始される。義弘はかつては南朝に与していたこともあるため、南朝の懐柔役として最適の人物だった。

交渉は三種の神器を持つ南朝の面目に配慮する形で進められ、和平条件が提示された。

その内容は、
1.南朝の後亀山天皇が京都に帰還して北朝の後小松天皇に譲位し、三種の神器を北朝へ返還する
2.南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)が交互に即位する
3.諸国の国衙領(国司が管理する土地)は南朝の領地とする
4.長講堂領(各地の皇室領で最大のもの)は北朝が支配する
というものであった。

南朝の正当性が認められ、京都に帰還でき国衙領も南朝のものとされる内容に、南朝方は理解を示し、これを受け入れた。

1392年の末に後亀山天皇は京都へ還幸、後小松天皇へ三種の神器が譲られた。
こうして、南朝と北朝は一つになり、約60年に渡る皇統分立の時代が終わった。
しかし、その後和平の条件は履行されず、北朝(持明院統)のみが皇位を継承していき、国衙領も南朝方が保有できたものはわずかであったという。

神器を北朝に取り戻し、南朝の命脈を断つことを目的としていたため、義満には和平条件を守る気は最初からなかった。圧倒的な軍事力を背景にした義満の作戦勝ちだった。
敗れた南朝は、その後もかすかな抵抗を続けていくが、時代の表舞台から消えた。



室町・織豊

Posted by kojiro