第2次護憲運動 護憲三派の政党勢力による倒閣運動 1924年 

2023年5月1日

1924(大正13)年1月、清浦圭吾内閣が成立した際に、護憲三派の政党勢力が起こした倒閣運動のこと。

高橋是清 Wikipediaより

枢密院議長であった清浦圭吾が組閣するにあたり、陸相と海相を除く全閣僚を貴族院から選出すると、憲政会、革新倶楽部、政友会の有志が「第二憲政擁護会」を設立した。

さらに憲政会の加藤高明、革新倶楽部の犬養毅、政友会の高橋是清は「護憲三派」を結成する。護憲三派は清浦内閣を超然内閣と批判して倒閣運動を展開した。普選断行、政党内閣の実現、貴族院・枢密院改革、行政整理などを公約に掲げ、各地で集会を開いた。

このような活動に対し、清浦内閣は衆議院を解散して総選挙に臨んだが、護憲三派が圧勝を収めた。その結果、第一党となった憲政会の加藤は犬養と高橋に入閣を要請し、3党の連立内閣を組織した。

加藤は、明治憲法下において選挙結果によって首相となった唯一の例となった。

【補説】

.加藤内閣は1925(大正14)年、普通選挙法を成立させた。これにより満25歳以上の男性が衆議院議員の選挙権を持つことになり、有権者は一挙に4倍に増えた。

2.一方で、この加藤内閣では、治安維持法が成立している。制定当初の目的は、日ソ国交樹立(1925年)による共産主義思想の波及を防ぎ、普通選挙法の成立による労働者階級の政治的影響力の増大に備えることにあった。この治安維持法の制定は、護憲三派(政党政治家)といえども民衆が社会主義に走ることへの警戒感を持っていたことの表れである。

その後、治安維持法は対象が拡大され、大々的な言論弾圧が行われて、政党政治の衰退をもたらしていくことになる。

3.護憲三派内閣の成立後、1932年に犬養毅内閣が倒れるまでの8年間、政友会と憲政会(のち立憲民政党)の総裁が交互に組閣するようになった。この状態は「憲政の常道」と呼ばれ、衆議院の最大多数党の党首が政権を担当、失脚した場合は次の多数党に政権交代する慣習が定着していった。

第1次護憲運動と第2次護憲運動の違い

第1次護憲運動は、民衆が主体の民衆運動であり、民衆と政党の利害がおおむね一致していた。第2次護憲運動は、政治家が主体の政治闘争であり、政党内部にも民衆への警戒感が存在していた。

明治・大正

Posted by kojiro