中国に二十一カ条の要求 満蒙における日本の権益強化 1915年
二十一カ条の要求は、第一次世界大戦中の1915(大正4)年1月18日に日本が中華民国政府(袁世凱政府)に対して行った要求。内容は、満蒙における日本の権益の強化やドイツの山東半島権益の継承などである。
当時の日本にとって、中国との満蒙利権の交渉は重要な懸案事項であった。日露戦争で得た旅順・大連の租借権は、1923年に迎える期限が迫っており、さらに南満州鉄道についても中国から買収の申し出があれば、それに応じなければならなかった。
ヨーロッパを舞台とした第一次世界大戦で、列強の関心が中国から逸れたこと、さらには辛亥革命後の中国国内の混乱、内部対立が、日本にとって中国との交渉を有利に進める絶好の機会となった。
第2次大隈内閣(外相加藤高明)は、この機を捉えて二十一カ条の要求を突き付けたのである。
要求書を受け取った袁世凱は、アメリカやドイツの公使らと連絡を取り、列国の対日反感を挑発するなどして、容易に受諾には応じなかったが、5月7日、日本側が最後通牒を発すると同9日に要求を受け入れた。
ただし、日本側もアメリカ・イギリスなどから反対のあったいくつかの項目を削除した。
中国国内では受諾に対する激しい反対運動や暴動がおこり、日中関係が悪化し、さらには列国の日本への猜疑心を招く結果となった。