日清講和条約(下関条約)産業革命の進展 金本位制の確立 伊藤博文 李鴻章 春帆楼 1895年
日清戦争の結果、日本側全権伊藤博文首相・陸奥宗光外相と、清国側全権李鴻章との間で1895(明治28)年4月17日、山口県下関・春帆楼で結ばれた条約。
11カ条からなるその内容は、清国は
(1)朝鮮の独立を承認する。
(2)日本に遼東半島及び台湾・澎湖島を割譲する。
(3)日本に賠償金を2億両(テール)(約3億円)を支払う。
(4)欧米諸国と結んだ不平等条約を基準とした日清通商航海条約を結び、また日本に最恵国待遇を与える。
(5)清国内の蘇州・杭州・重慶・沙市を開市・開港し、そこにおいて日本人が商工業活動を行うことを承認する、というものであった。
なお、遼東半島は、中国の中央部に絶大な戦略的位置を占める重要な場所だった。
日本は戦後、巨額の賠償金と新しい市場を獲得したことにより、産業革命が進展し貿易が拡大して金本位制が確立した。
また欧米諸国からアジアの強国と認められ、条約改正が進んだ。
一方、清国に代わりロシアが朝鮮に政治介入を強めたので本来の目的であった朝鮮の政治的支配は達成できなかった。
【補説】
台湾では、1895(明治28)年5月、日本の支配に対して住民が蜂起したが、日本軍に鎮圧された。日本は台湾統治のため、台湾総督府を設置した。
金本位制確立:日本は1871(明治4)年の新貨条例発布により金本位制を採用していたが、実質的には銀本位制であった。1887(明治20)年頃からの世界的な銀貨の下落で、日本の為替相場は不安定となって物価が高騰し、貿易も阻害されていた。そのため金本位制の実質運用が急務となり、1897(明治30)年、貨幣法を制定し、実を伴う金本位制を確立した。必要な金準備は、日清戦争の賠償金の一部が充てられた。