大同団結運動 自由民権派が行った反政府統一運動 1886~89年

2023年5月1日

1886(明治19)年から89年にかけて、後藤象二郎、星亨ら自由民権派が行った反政府統一運動。

後藤象二郎 Wikipediaより

政府は明治14年の政変で国会開設の勅諭を出し、同23年に国会を開くことを約束していた。

その後、板垣退助が自由党を、大隈重信が立憲改進党を結成し、民権派はこの二つの政党のもとに集まった。こうした動きに対して、政府は先に制定した集会条例等で抑え込みを図った。

明治15年から同17年にかけて、民権派の行動は過激化し、一部の急進派は、直接行動によって政府に対抗しようとした。

福島事件に続いて加波山事件・秩父事件など、各地で自由党員らによる暴発事件が次々に起こった。

こうした過激な行動を抑えられなくなった自由党は解散、立憲改進党も大隈重信が離党するなどして、自由民権運動は衰退していった。

その後、明治23年の国会開設が近づくと、民権派は運動の再興が必要であるとし、同19年10月、旧自由党・立憲改進党の有志が集まり、星亨が来るべき国会開設に備え民権各派は「小異を捨てて大同につくべし」と説き、分裂した民権派の再結集を図った。

そして外交の失敗の挽回(対等条約の実現)、地租軽減、言論・集会の自由を求めて政府に迫った(三大事件建白)

これに対し、政府は保安条例を発して多くの民権活動家を東京から追放し、運動を抑えた。これにより、自由民権運動はその終焉を迎えた。

 

対等条約の実現:江戸幕府が1858~67年にかけて欧米諸国と締結した通商条約は、領事裁判権を認め(治外法権)、関税自主権を放棄した不平等条約であった。明治政府にとって、この不平等条約の改正は大きな外交課題となった。

明治・大正

Posted by kojiro