廃藩置県 薩長藩閥政権による中央集権体制が完成 1871年
1871(明治4)年7月14日、全国の藩を廃止して県を設けた政治的変革。
1869年の版籍奉還で、政府は諸大名に命じて領地と領民を天皇に返上させたが、藩主は石高にかわる家禄の支給を受け、そのまま知藩事とされて藩政にあたったため、中央集権の実効はあまりあがらなかった。
そこで、大久保利通・木戸孝允ら政府の実力者たちは、中央集権体制を確立するため、薩摩・長州・土佐3藩から御親兵をつのって中央の軍事力を固め、これを背景に廃藩置県を断行した。
これにより、東京・大阪・京都の3府と302県(のち72県)が成立した。そして、すべての知藩事(旧藩主)をやめさせて東京在住を命じ、新たに政府の任命した府知事・県令(県知事)を派遣して、薩長藩閥政権による中央集権体制が完成した。
政府は、反対する藩は武力で討伐する決意をしていたが、意外にもこの布告は大きな抵抗もなく受入れられた。
戊辰戦争以降、財政逼迫に苦しむ諸藩には、もはや政府に対抗する力はほとんどなかったのである。
【補説】
戊辰戦争などによる巨額な出費は多くの藩の財政難を一層深刻化させ、破綻を危惧する藩が多かった。実際、「藩を返上したい」と申し出る藩主もいたと言われている。
廃藩置県を行うことで財政は国が一括で管理し、それまでの旧藩主たちが抱えていた債務は、すべて免責されることになった。
つまり、藩主にとっては、膨大な負債から免れることができるのであれば、廃藩はむしろ渡りに船という一面もあった。
そのため、廃藩置県は藩主らからの反発が少なく、スムーズに実行することができたと言われている。