神仏分離令 廃仏毀釈 1868年

2023年5月1日

明治新政府が、1868(慶応4)年3月、天皇の神権的権威を確立するためにとった神道保護と仏教排斥の宗教政策。

平田篤胤 Wikipediaより

政府は祭政一致を具体化するため、神仏習合を禁止し、神社から仏像・僧像・経典などを、また寺院からは神社関係物を除去し、神社所属の僧侶の還俗を命じた。平田篤胤らの復古神道が思想的基盤であった。

この政策は、その後さらに過激な廃仏毀釈運動へと発展した。

廃仏毀釈

仏を廃し釈迦を毀損するということ、すなわち仏教に関することを排除し、釈迦の教えを壊すというもの。

1868(慶応4)年3月の神仏分離令により、明治新政府は神仏習合を廃し、神仏分離を推し進めた。この政策は、その後さらに過激な廃仏毀釈運動へと発展し、5年程度で収束した。

古来日本人は八百万の神を信じ、森羅万象に神の存在を認める観念を無意識のうちに有していた。西暦538年(552年という説もある)の仏教伝来以後は、神仏習合という知恵で、日本人は神と仏を穏健に両立させていた。

しかし、明治新政府の神仏分離令をきっかけにして、元々寺院に対して不満を抱いていた市民や神官たちを中心に、多くの人が全国各地で仏教寺院を襲っていき、建物・仏像・仏具・経典などそこにある仏教にまつわる様々なものを破壊していった。

根底には、江戸時代に確立された寺請制度があった。この制度によって、寺と市民は深く結びついていたが、市民にとっては金銭面での負担を強いられることも多く、寺に対して不満を抱えていた市民も多かった。

また、神社は寺請制度のような財政基盤を持たず、寺側の勢力に押され気味であった。このように、市民や神道側の人々のなかには仏教側への不満を募らせていた人も多く、それが神仏分離令で一気に爆発した。

一方、明治新政府にとっても、寺請制度によって市民を実質的に管理していた寺院の力を削ぐことは、すなわち徳川時代の否定をすることでもあった。

明治・大正

Posted by kojiro