鳥羽・伏見の戦い 旧幕府軍と新政府軍との戦い 1868年
鳥羽・伏見の戦いは1868(慶応4)年1月に、徳川慶喜擁する旧幕府軍と、薩摩・長州両藩を中心とする新政府軍とのあいだに起きた武力衝突のこと。
鳥羽街道と伏見街道が主戦場となったため、この名がある。この戦いは翌年の函館戦争(五稜郭の戦い)まで続く戊辰戦争の始まりとなった。
王政復古の大号令によって、慶喜は政治的な主導権を失うが、薩長も完全に実権を掌握したわけではなかった。
慶喜は、「一部の武装勢力が諸藩の会同衆議を待たずして、にわかに未曽有の大変革を断行した」として、王政復古の大号令の撤回を要求した。そのうち親慶喜勢力の強硬派が台頭してくると、慶喜は薩摩藩との決戦を決意する。
1868(慶応4)年1月1日、慶喜は薩摩藩の征討を表明し、旧幕府軍・会津藩・桑名藩に京への進撃を命じた。
そして1月3日、鳥羽・伏見で慶喜たちは薩長両藩と衝突し、「鳥羽・伏見の戦い」が勃発した。
戦いが一進一退を繰り返すなか、新政府軍は岩倉具視の内部工作により朝廷から「錦の御旗」を作成する許可を取った。
これを戦場に掲げることで新政府軍は「官軍」、旧幕府軍は「朝敵」という図式ができ上がり、旧幕府軍の中で次々と離反が起こった。
旧幕府軍は総崩れの状態となり、鳥羽伏見の戦いは新政府軍の勝利で終わった。
ちなみに当時大坂城にいた総大将の徳川慶喜は、逃げ戻る味方の兵を置き去りにして、わずかな側近を連れ海路で江戸に戻ってしまう。