簡潔「藤原純友の乱」 瀬戸内の海賊 939年
藤原純友が平安時代中期、朝廷に対し海賊の頭領として西国・瀬戸内で起こした反乱。平将門の乱と併せて承平天慶の乱と呼ばれる。
純友は当時の朝廷において権力の中枢を占めていた藤原北家に生まれている。右大弁藤原遠経の孫、大叔父には最初の関白・藤原基経がいる。
純友は、伊予守藤原元名に従って伊予掾(じょう)として、瀬戸内に跋扈する海賊を鎮圧する側にあった。しかし、元名帰任後も帰京せず伊予国に土着する。
936年頃までには海賊の頭領となり、伊予(愛媛県)の日振島を根城として千艘以上の船を操って周辺の海域を荒らし、やがて瀬戸内海全域に勢力をのばした。
関東で平将門が乱を起こした頃とほぼ時を同じくして瀬戸内の海賊を率いて乱を起こし、やがて畿内にも進出、939年には純友は部下の藤原文元に摂津国須岐駅にて備前国・播磨国の介2名を襲撃させ、これを捕らえた。
翌940年には、2月に淡路国・8月には讃岐国の国府を、さらに10月にはついに大宰府を襲撃し略奪を行った。
朝廷は純友追討のために追捕使長官:小野好古、次官:源経基による兵を差し向け、941年5月に博多湾の戦いで、純友の船団は追捕使の軍により壊滅させられた。