禁門の変(蛤御門の変) 長州藩の反乱 1864年
8月18日の政変の約1年後、1864(元治1)年7月19日、長州藩と幕府が京都御所・禁門(蛤御門)付近を主戦場として戦った戦闘。蛤御門の変ともいう。
長州藩は京都での勢力回復を狙うが、藩内部では真木和泉ら急進派の進発論と、桂小五郎や高杉晋作を中心とする慎重論に藩論が分かれた。当初は慎重論が支配的だったが、池田屋事件(7月8日)をきっかけに藩論は進発論へと大きく傾いていく。
前年の政変によって京都から追放された尊攘派の志士たちは、密かに京都に潜伏し、挙兵の機を伺っていた。志士たちの動きを察知した新選組は、彼らの潜伏先である池田屋を突き止め、これを襲撃した。宮部鼎蔵など尊攘派は多くの有力志士を失った。また、松下村塾で四天王と呼ばれた吉田稔麿らも討死した。これに激怒した長州藩内の進発派は、ついに京都への出兵を決断する。
上京した長州軍は陣を張り、朝廷へ藩主毛利敬親父子と三条実美ら公卿の罷免嘆願を行うが容れられず、朝廷から退去命令が下された。これを長州軍が拒否したため交渉は決裂、7月19日、蛤御門で長州軍と会津を中心とする幕府軍が衝突した。
激戦が繰り広げられ、戦局は当初、長州藩が優勢となるが、西郷隆盛率いる薩摩藩が参戦したことで、一気に会津・薩摩側に傾いた。さらに、長州藩の主導者の一人久坂玄瑞が鷹司邸で自決するに至り、長州藩は藩邸を焼き撤退した。
こうして禁門の変は、長州藩の惨敗に終わった。その後の長州征討の発端となった。
この戦いによって京都市街は火の海となり、市民たちにも多大な被害を残した。