八月十八日の政変 七卿落ち 三条実美 1863年
1863(文久3)年8月18日、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする過激な尊皇攘夷派と急進派公家を京都から追放したクーデター事件。三条実美を含めた七人の公家が都を追われたため、「七卿落ち」とも言われる。
坂下門外で老中安藤信正が襲撃される(坂下門外の変・1862年)と幕府の権威は失墜し、幕府に反対する特に長州藩を中心とする急進的な尊皇攘夷派の勢いが強くなった。この頃、政治の舞台は朝廷のある京都に移っていた。京都には各地から尊攘派志士が集結し、「天誅」と称して反対派に対する暗殺・乱暴狼藉が繰り返された。
長州藩は、朝廷内で実権を握る三条実美などの尊皇攘夷派の公家と結びつき、天皇に働きかけて攘夷の実行を幕府に迫った。幕府はやむなく、1863年5月10日の攘夷決行を諸藩に通達した。この日長州藩は、下関海峡を通過するアメリカの船を砲撃し、攘夷を実行した。しかし他藩は動かず、将軍家茂も6月には江戸に戻った。
こうした事態に長州藩は、攘夷を幕府任せ(攘夷委任論)にせず、天皇自ら兵を率いて攘夷を実行させるべきとの攘夷親征論を唱え、陰謀を画策する。
一方、孝明天皇は攘夷主義者ではあったが長州藩の過激な思想による暴走を支持しなかった。攘夷の実行についても幕府や諸藩が行うべきものと考えていた孝明天皇にとっては、過激すぎる長州藩は排除すべき存在となっていった。
尊王攘夷派の一方の雄である薩摩藩は、穏健な公武合体論であり、過激な長州に不快感を持っていた。
他方、京都の治安を預かる京都守護職の会津藩も、京都市内で天誅を繰り返す長州一派を疎んじていた。
こうして、対長州で孝明天皇・薩摩藩・会津藩の利害が一致し、8月18日未明、孝明天皇の了承のもと、薩摩藩と会津藩が御門を武力封鎖、長州藩を文字通り御所から締め出した。
中央政界の勢力図を一夜にして塗り替えたクーデターであった。攘夷派公卿は失脚、長州藩も朝廷から排除され、京都から追放されることになった。