大塩平八郎の乱 奉行所与力の武装蜂起 1837年
1837(天保8)年2月、大坂の元東町奉行所与力で陽明学者でもあった大塩平八郎が、幕政を批判して救民のために武装蜂起した事件。
事件の背景
1828(文政11)年頃から断続的に続く凶作・飢饉により米価が高騰し、各地で餓死者が多数出て、大塩のいる大坂も飢餓による死者が続出していた。
こうした市中の惨状に、大坂東町奉行の跡部良弼は適切な救済策を取るどころか、大坂町奉行に下った江戸廻米の命令に応じた。これは、幕府の将軍宣下の式典に備えて大量の米を江戸へ回送することだった。米を買占めた豪商らは巨利を得た。
事件の経過
大塩は、東町奉行跡部に対し窮民の救済策を上申し、特権豪商には義捐金の拠出を迫った。しかしいずれも受け入れられず、ついに大塩はその隠匿する米穀や金銭を窮民に分け与えるため、彼らを成敗すべく挙兵を決意する。挙兵に先立って大塩は、蔵書1200部余を全て売って換金し、近在の窮民約1万人に金1朱ずつ分配して、挙兵への参加を促していた。
1837年2月19日、大塩は門弟20数名ほどで蜂起し、「救民」の旗印を掲げて進撃する。天満一帯を火の海にしながら豪商が軒を並べる船場に進出した頃には、300名ほどになっていた。鎮圧に出動した幕府勢と市街戦を繰り返したのち、大塩一党は制圧された。
大塩父子は約40日後、大坂市中に潜伏しているところを発見され、自刃した。事件に関連した処罰者は800人以上になった。
事件の影響
【補説】
大塩平八郎
元大坂町奉行所の与力で陽明学者。38歳で退職するまで名与力と謳われた人物。退職後は隠居して養子の格之助に家督を譲り、自宅に洗心洞と名付ける塾を開いて同僚の子弟や、近在の農民に陽明学を講じた。
陽明学
中国で明の時代に王陽明が唱えた儒学の一派。朱子学の批判から出発し実践倫理を説いた。知行合一・致良知の説を主要な思想とする。人は生来備えている良知(是非・善悪・正邪の判断力)を養って、知識と実践とを一体化すべきだとするもの。日本では江戸時代、中江藤樹がこれを広め、幕末の大塩平八郎らに影響を与えた。