江戸時代の「四つの口」 長崎・松前・対馬・薩摩
⓵長崎
長崎は幕府の直轄領であり、江戸時代初期には朱印船貿易の拠点の一つだった。1641年以降は、貿易の相手がオランダと中国に限定された。オランダ人は出島、中国人は唐人町のみに居留が許され、幕府の厳しい監視の下で交易が行われた。
オランダや中国との交易では、当初は糸割符制による一括購入方式が採用されたが、1655年にその方式は廃止され、相対貿易と呼ばれる自由貿易が行われた。しかしそれは、輸入価格の高騰、銀の流出を招き、幕府は再び交易の統制を強めた。その後、生糸に関しては糸割符を復活させ、貿易総額の枠を定めるなど、幕府の政策は変転を重ねた。
幕府の方針としては、特定の商人に貿易を独占させ、最大の輸入品である生糸を一括購入させることで価格を下げ、同時に金や銀、銅といった金属の海外流出を防ぐことだった。
②松前藩
北海道の南部を治めた松前藩は、幕府からアイヌとの交易の独占権を与えられていた。
アイヌは当時、中国とも交易をしており、松前藩はアイヌを通して中国の絹織物を得ていた。これは蝦夷錦・山丹錦とも呼ばれ、松前藩から幕府への献上品としても使われた。
日本の最北にあり、米の収穫がない松前藩にとって、アイヌとの交易は貴重な収入源だった。
③対馬藩
豊臣秀吉が朝鮮に侵略した文禄・慶長の役以降、日本と朝鮮との国交は断絶していた。
江戸時代に入ると、徳川家康は朝鮮との国交回復を目指し、対馬藩の藩主・宗氏に仲介を依頼した。
宗氏は朝鮮と信頼関係を築き、1605年の日韓和約で国交が回復し、1607年には朝鮮の使節である朝鮮通信使が来日した。この功績が認められて、これ以降の朝鮮との交易は対馬藩が独占することになった。
1811年まで計12回にわたって朝鮮通信使は来日するが、対馬藩はその度に仲介役を務めた。
④薩摩藩
薩摩藩・島津氏は1609年に幕府の許可を得て、琉球王国に侵攻し、征服する。
それまで琉球王国は中国への朝貢で栄えていたが、これ以降は中国への朝貢を続けつつも、その利益は薩摩藩が得るようになった。
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