室町・織豊

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応永の外寇は、1419年に起こった朝鮮の軍隊による対馬攻撃をいう。乱の鎮静後、朝鮮と対馬宗氏は断交したが、倭寇の活動は下火となった。

この事件の背景には、14世紀半ば以降に活発化した倭寇問題が存在した。

1419年年5月、倭 ...

室町・織豊

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1416年から翌年にかけて犬懸上杉氏の上杉氏憲(法名禅秀)が鎌倉公方足利持氏に対して起こした乱。

禅秀は関東管領の職にあったが、禅秀の家人の領地を持氏が没収したことから、持氏と対立して辞職した。そもそも、この2人は仲が悪かった。 ...

室町・織豊

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1399年に、守護大名の大内義弘が室町幕府に対して起こした反乱。

室町幕府は有力守護大名の連合で支えられており、将軍の権力はさほど強いものではなかった。
そのため、3代将軍足利義満は、大きな勢力を持った有力守護大名の弱体化を図り ...

室町・織豊

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多くの守護大名を、その強権をもって廃してきた足利義満が1392年、南朝の後亀山天皇を京都に迎え、北朝の後小松天皇へ三種の神器が譲られたことによって南北朝の合一が実現した。

土岐・山名・細川・斯波といった幕府にとって危険な守護大名を、権謀 ...

室町・織豊

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1391年、山名氏清・満幸らが幕府に対して起こした反乱。乱の鎮圧後、幕府の権威が強固となった。

山名氏は新田氏一族で、南朝討伐の軍功により勢力を拡大した。1389年には11か国(66か国中)の守護を兼ねるようになっており、その実力は“六 ...

室町・織豊

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1390年、将軍足利義満によって土岐康行が滅ぼされた事件。

後に明徳の乱(1391)、応永の乱(1399)と続く、将軍専制権力の確立を目ざした足利義満による大守護抑圧策の最初の事件である。

土岐氏は美濃国土岐郷を本貫とする清 ...

室町・織豊

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一旦は平穏が戻ったものの幕府内部では直義派と反直義派との対立構造は存在したままで、両派の衝突が避けられない状況になっていった。

そんな中、近江の佐々木道誉や播磨の赤松則祐らが南朝と通じて尊氏から離反したことにして、尊氏は近 ...

室町・織豊

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1349年12月、上杉重能と畠山直宗が配流先で高師直の配下に暗殺される事件が起こり、足利直義派と師直派の緊張が再び高まった。

事件を知った長門探題である直義の養子足利直冬が、直義援護のために上洛しようとしたが、幕府の討伐軍により直冬は九 ...

室町・織豊

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室町幕府の初期、足利尊氏の弟・直義と足利家の家老的役割を担った高師直の対立が次第に表面化していった。

室町幕府草創期は、足利家の家宰的役割を担った執事の高師直が将軍足利尊氏を補佐し、尊氏の弟足利直義が政務・訴訟を担当する二元的な体制を取 ...

室町・織豊

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1350年から1352年にかけて、室町幕府の内紛によって行われた戦乱。

室町幕府草創期は「軍事の長」の足利尊氏と、弟で「政事の長」の足利直義による二頭政治が行われた。二元化した権力は次第に幕府内部の対立を呼び起こし、直義派と執事高師直ら ...