室町・織豊

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1493年に、幕府管領・細川政元が10代将軍足利義材(よしき)を失脚させ、足利義澄を第11代の将軍に擁立した事件。家臣が将軍を廃するという前代未聞のこの事件は、細川政元によるクーデターであった。

1489年3月、9代将軍足利義尚が没する ...

室町・織豊

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1488年、一向宗門徒が守護の富樫政親を滅ぼした一揆。

1471年、一向宗の本山・石山本願寺の蓮如は越前国吉崎(現福井県あわら市)に下向して真宗(一向宗)の布教を始めた。

一向宗が広まることを恐れた加賀の守護・富樫政親が弾圧 ...

室町・織豊

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1485年12月、南山城で地侍・名主を中心に一般農民が加わって起こした一揆。

1467年に始まった応仁の乱は1477年に終息していたが、南山城では、なお畠山政長・義就両軍による戦闘が続いていた。

両軍は宇治川を挟んで対峙した ...

室町・織豊

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室町時代中期の1467年京都で発生し、1477年までの約11年間にわたって継続した内乱。

応仁の乱の直接の原因は、足利将軍家の継嗣問題と、ともに管領家である斯波・畠山両氏の家督争いであった。

将軍足利義政には子がなかったため ...

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鎌倉公方足利成氏が幕府に背き古河へ移ると、関東管領上杉氏は、成氏に対抗するために幕府に新たな鎌倉公方の下向を求めた。

そこで将軍足利義政は、1458年、新公方として弟の政知を鎌倉へ下向させ、成氏征伐を命じた。

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永享の乱で鎌倉公方足利持氏は自殺し鎌倉府は滅亡したが、関東管領上杉氏は1449年、幕府に請うて持氏の子成氏を鎌倉に迎えた。

しかし1454年、成氏は関東管領上杉憲忠を殺したことにより、幕府に攻められ下総古河に拠って幕府に反 ...

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1441年、赤松満祐が室町幕府6代将軍足利義教を暗殺した事件。

室町幕府創設以来の功臣だった赤松は、将軍足利義教に疎んじられたのに反発し、義教を自邸に招いて謀殺。満祐はやがて幕府軍に討伐され、一族とともに自刃した。

当初、義 ...

室町・織豊

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1440年から翌年にかけて、下総の結城氏朝が永享の乱(1438~39)で敗死した鎌倉公方足利持氏の遺子を擁して室町幕府と上杉氏に抗した戦い。

永享の乱で実権を握った上杉憲実は、持氏殺害の責を自らに課し、関東管領の職を辞した。そして、憲実 ...

室町・織豊

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1438年から翌年にかけ、鎌倉公方足利持氏が室町幕府に背いた事件。

幕府と鎌倉府、すなわち将軍家と鎌倉公方の関係は両府の成立以来、必ずしも良好とはいえなかった。また、両者の間に立つ関東管領上杉氏と、鎌倉公方足利氏の間も微妙な関係にあった ...

室町・織豊

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1428年8月の近江に始まり、京都、奈良さらに畿内諸国へと広がった、徳政を求める土民の一揆。以後、各地で蜂起する大規模な徳政一揆の先駆けとなった。

酒屋、土倉などの金融業者の高利や強制取立てに苦しんだ畿内および近国の百姓・馬借らは、債務 ...