室町・織豊

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1571年、織田信長が敵対する浅井・朝倉方を匿った比叡山を焼打ちした事件。

姉川の戦い(1570年6月)に敗れ一旦退いていた浅井・朝倉両氏は、信長が摂津国で本願寺(一向一揆)と戦っているときに、反撃の兵を挙げた。

この時、比 ...

室町・織豊

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織田信長と摂津国石山本願寺に拠る本願寺第11世顕如との間で、1570年から1580年までの11年間にわたって続けられた合戦。敗れた顕如は紀伊雑賀に退いた。

1500年頃から、浄土真宗(一向宗)は当時の幕閣側近らとの関係を強め、勢力を伸ば ...

室町・織豊

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1570年6月28日、近江国姉川流域で行われた浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍の戦い。勝利した信長の畿内制定がほぼ確定した。

戦いの発端となったのは同年4月、信長が越前の朝倉義景を攻めたとき、朝倉氏との古いよしみによって浅井長政がそれ ...

室町・織豊

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1565年5月19日、室町幕府第13代将軍の足利義輝が、京の二条御所で三好三人衆の軍勢から襲撃され殺害された事件。

首謀者である三好三人衆は、三好長逸、三好宗渭(のち政康)、岩成友通の3人のこと。畿内を実質的に統治し「最初の天下人」とい ...

室町・織豊

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1570年、織田信長は上洛を拒否する越前の朝倉義景討伐のために戦うが、浅井軍に背後を衝かれ挟撃される形となったため、京に逃げ帰った。

織田信長は足利義昭を奉じて1568年9月に上洛し、義昭を室町幕府15代将軍に据えた。

義昭 ...

室町・織豊

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足利義昭の求めに応じ挙兵した織田信長は、1568年9月京都に入り、当時畿内を支配していた三好勢を京都から一掃した。

応仁の乱(1467−77)によって足利将軍家は弱体化し、政治の実権は幕府の管領である細川氏へ、さらにはその家臣である三好 ...

室町・織豊

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将軍足利義輝を倒した三好三人衆は、足利義栄を将軍候補に据えたが、三好家の実権を掌握する松永久秀と対立するようになる。

この頃の久秀は、筒井順慶から大和を奪って滞在していた。久秀は、もう一人の将軍候補義輝の弟義昭を興福寺に幽閉して監視下に ...

室町・織豊

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1536年、延暦寺の宗徒が、南近江の守護六角定頼の支援を得て法華一揆を破り、京都の日蓮宗寺院21寺を襲撃破却した事件。

京都町衆を中心とする法華(日蓮)宗徒は、京都に乱入する一向一揆や土一揆に対抗して法華一揆を起こし、1532年には山科 ...

室町・織豊

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室町後期、日蓮宗を信仰する京都町衆の法華(日蓮)宗徒による一揆。

鎌倉時代末、1294年に入洛した日像によって、はじめて京都に法華宗(日蓮宗)がもたらされて以来、法華宗は京都の町衆の間に浸透し、応仁の乱(1467~77)前後には、洛中に ...

室町・織豊

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1491年10月ころ、北条早雲は後の将軍足利義澄に命じられ堀越御所を攻撃して堀越公方を滅亡させ、伊豆国北部を制圧した。

1490年当時、伊豆で最大の勢力を持っていたのは堀越公方であった。

その約30年あまり前、鎌倉公方足利成 ...