三好長慶による京都支配 最初の統一政権 1549~68年
応仁の乱後、室町幕府は衰退したが崩壊には至らず、局地政権として畿内周辺に存続していた。その時幕府を実質支配していたの ...
慶長の役 (朝鮮出兵)1597年
第1回目の朝鮮出兵(文禄の役・1592年)のあと、明とのあいだで講和交渉が重ねられた。交渉では、日明双方の交渉担当者の手によって、講和 ...
26聖人殉教事件 1597年
前年のスペイン船サン・フェリペ号事件が直接の契機となり、西ヨーロッパ諸国の日本侵略を疑った豊臣秀吉が、京都およびその近郊にいたフランシスコ会士6名、日本人 ...
サン・フェリペ号事件 1596年
豊臣秀吉は1587年にバテレン追放令を発布したが、南蛮貿易の実利を重視していたこともあって、宣教師たちは黙認という形ではあったが日本で ...
文禄の役(朝鮮出兵) 1592年
海軍力に不安を持つ秀吉は、朝鮮半島を通り陸路、明に侵攻する計画を立て、そのために李氏朝鮮を日本に服属させる交渉を行ったが決裂した。秀吉 ...
豊臣秀吉、小田原を平定 北条氏政・氏直 1590年
小田原北条氏は室町末期、伊豆の堀越公方を襲い、その後伊豆一国を平定した伊勢新九郎長氏(北条早雲)を祖とし、以来5代100年にわたって関東と伊 ...
バテレン追放令 1587年
追放令は5カ条からなり、神国・仏教国の日本で、邪法キリスト教が説かれることは不適当であるから、宣教師は20日間以内に国外退去せよとしている。
ただ ...
豊臣秀吉、九州を平定 島津義久・義弘 1587年
戦国末期、九州は強力な戦国大名三者による三つ巴の抗争が展開されており、これを「大友・龍造寺・島津の三氏鼎立時代」などと呼ぶことがある ...
羽柴秀吉、四国平定 長宗我部元親 1585年
当時の四国は、土佐の長宗我部元親が四国をほぼ統一していたが、それ以前から賤ヶ岳や小牧・長久手の戦いなどで、ことごとく秀吉に敵対していた。そのため秀吉は、元親討伐を ...
小牧・長久手の戦い 羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍の戦い 1584年
秀吉は、本能寺の変後、清須会議、賤ケ岳の戦いを経て、信長の後継者としての立場を強めていった。これに対して脅威を感じた信長の次男信雄 ...