ポツダム宣言受諾 太平洋戦争終結 1945年
天皇の聖断によりポツダム宣言受諾が決定された。
米軍による沖縄占領、都市爆撃の激化など日本に不利な情勢がさらに続いていくなか、日本の中枢部は終戦について検討を重ねていたが、6月8日の御前会議(天皇の参加する最高決定会議)では本土決戦に向けての方針が確認された。
他方で、和平工作がいくつか試みられていたもののいずれも不調に終わり、残すは中立のソ連に対米英仲介を恃むのみとなっていた。
ポツダム宣言(45年7月26日付)が伝えられてもなお、それにソ連が名を連ねていなかったことで、日本政府はソ連の対米英仲介に一縷の望みをかけ続けた。
この状況を劇的に変化させたのが、8月6日の広島原爆投下であり、9日未明のソ連参戦であった。アメリカによる新兵器の使用とソ連軍の参戦によって、戦争継続により有利な条件を引き出した上での和平、という日本側の目算は困難になった。
いよいよポツダム宣言受諾という決断を下す機運が高まったが、首脳間の意見の不一致は相変わらず続き、天皇の影響力を用いて宣言受諾の決定に持ち込もうとして開催されたのが8月10日零時過ぎ(従来説では9日深夜)に始まる御前会議である。
そこでも意見が割れたため、鈴木貫太郎首相は最後に昭和天皇の判断、いわゆる「聖断」を求めた。
そこで天皇は「国体護持」のみを条件としてポツダム宣言受諾を主張する東郷茂徳外相案を支持して、宣言受諾が決定された。
1945(昭和20)年8月14日、日本政府はポツダム宣言受諾を連合国に通告し、翌8月15日、天皇自身のラジオ放送(玉音放送)を通じて、国民にこれを明らかにした。
なお、ポツダム宣言受諾とともに鈴木貫太郎内閣は総辞職した。
【補説】
御前会議の構成員:天皇・鈴木貫太郎首相・東郷茂徳外相・阿南惟幾陸相・米内光政海相・梅津美治郎参謀総長・豊田副武軍令部総長
阿南陸相:8月9日を境に「名ヨある講和と云う気持ちが国体護持という気持ちに変わった」
国体護持:日本において国体護持とは、天皇制を維持し、その中心である天皇の地位・権威・権能を保全することである。