ポーツマス条約 (日露戦争講和条約) 賠償金の全く取れない講和条約 1905年
1905(明治38)年9月4日、アメリカのポーツマスで調印された日露戦争の講和条約。
日本は、日本海海戦の勝利を機にアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに講和の斡旋を依頼した。この講和には、日米露3者に三様の事情が存在していた。
日本は日露間の個別戦闘には勝利したが、戦力が限界に達していたため、戦争の終結を望んでいた。
一方ロシアも、日露戦争さなかの1月に勃発した革命運動を収束させるため、やはり戦争を終わらせたかった。
そしてアメリカは、日露両国のいずれかが大勝し、満州を独占支配することを恐れていた。これらの事情を含みながら、小村寿太郎とウィッテを首席全権とする講和会議が8月1日から行われた。
交渉は賠償の問題などをめぐって難航したが、日本側が賠償金を放棄した結果、9月5日講和が成立した。
そのおもな内容は、
〔1〕ロシアは、日本の韓国に対する一切の指導権を認める。〔2〕両国は満州から撤兵する。
〔3〕ロシアは旅順・大連の租借権、および長春―旅順間の鉄道(のちの南満州鉄道)と沿線の炭坑を日本に譲渡する。
〔4〕ロシアは日本に樺太の北緯50度以南を割譲し、沿海州とカムチャツカ方面の漁業権を与えることなどであった。
国民は人的な損害と大幅な増税に耐えてこの戦争を支えたが、賠償金の全く取れない講和条約に不満を爆発させ、講和条約調印の日に開かれた講和反対国民大会は暴徒化した(日比谷焼打ち事件)。