シーボルト事件 国外追放 1828年
1828(文政11)年9月、オランダ商館医のシーボルトが、禁制品を自国に持ち帰ろうとして発覚し、のちに国外追放された事件。
当時、出島のオランダ商館長は4年に一度、将軍との謁見(江戸参府)が許されていた。1826(文政9)年、シーボルトはこの江戸参府に随行した。
江戸滞在中、多くの学者や医者、幕府の役人らがシーボルトを訪ねるが、その中に幕府の書物奉行高橋景保もいた。景保はシーボルト所有の「世界周航記」等を入手するため、国禁を犯し、伊能忠敬の「日本沿海実測図」を元にした日本略図、蝦夷地図等を渡した。
1828(文政11)年、シーボルトは日本での任期を終える。帰国を前に荷物が調べられたとき、その中から当時、国外への持ち出しが禁止されていた日本地図やその他の禁制品が発見された。長崎奉行所は、これらの禁制品を押収。翌年12月、シーボルトは国外追放を申し渡された。高橋景保も逮捕されてその後獄死している。
なお、シーボルトは西洋医学や博物学を教える個人塾「鳴滝塾」を開いたが、門下生には高野長英らがいた。また、日本の地理や文化、自然科学を研究し、学術的にも評価の高い日本研究を発表するとともに、著書『日本』などを通じてヨーロッパに日本を紹介することに寄与した。