享保の改革 徳川吉宗 1716~1745年
江戸時代、8代将軍徳川吉宗が幕政建直しのために行った改革。1716年に始まり、その在職中(~1745年)に行われた。
⓵政治・経済的背景
綱吉の元禄時代は、寺社や御殿の造営、さらには豪華奢侈の風により財政赤字を生みだした。また、明暦の大火の復興費や鉱山収入の減少なども加わり、幕府の財政は危機的状況にあった。その財政危機を貨幣の品位を悪くする貨幣改鋳による益金で補填した。しかし、こうした出目を目的とした経済政策はインフレを招き、経済は混乱した。
市場経済では、新田開発や農業生産力の向上に伴って米の供給が増え米価は低迷した。一方、都市での消費経済の発達により米以外の物の需要が拡大し、諸物価が上昇した(米価安諸色高=米の値段は安く、それ以外のものの値段は高い)。そのため年貢米の換金により財政をまかなう幕府にとって不利な物価動向となっていた。
新井白石は、こうした政治経済状況を変革するため、機構改革・通貨改良・貿易改正などに着手した。しかし、貨幣改鋳も効果は少く、また極端な文治主義に対する幕臣の反対も多く、白石は諸幕臣から遊離し、政治は停滞していた。
②相対済令 1719年
幕府が、金銭貸借・売掛金などに関する訴訟は受理せずに、当事者間で解決するように命じた法。政務の合理化のために制定したが、これを悪用して借金を踏み倒す旗本らも出現した。
③目安箱の設置 1721年
民衆の意見を広く求めるため、評定所の門前に設置した。その意見の中から貧民の無料治療施設として、幕府の小石川薬園の中に小石川養生所を作った。
④質流地禁止令 1722年
小農経営維持のため、農民が質入れした田畑を、質流れにすることを禁じた法令。
しかし、村役人が農民に禁令の内容をきちんと伝達しなかった村々では、農民たちがこの法令を借金が帳消しにできる徳政令と勘違いした。そのため、各地で質流れになった田畑を取り戻そうとする質地騒動が起こる。事態を憂慮した幕府は、この法令を撤回し、質流れという形での土地異動を黙認した。
⑤上げ米令 1722年
この頃、明暦の大火後の復興や綱吉の寺社造営等で支出が増大し、金銀産出量の減少や年貢徴収の限界に加え、諸色高米価安で収入の落ち込みも重なり、財政難が深刻化していた。そのため幕府は、各大名から1万石につき100石を幕府に納めさせる代わりに、参勤交代で江戸に滞在する期間を1年から半年に短縮することを許可した。こうして幕府の税収を増加させることを図った。これは1730年まで続けられたが、家康以来の祖法を変えることに反対する意見も多く、そのため幕府財政が一応安定した1731(享保16)年に廃止され、その翌年からは江戸滞在期間も1年に戻された。
⑥定免法 1722年
従来は収穫によって年貢高を設定する「検見法」が採用されていたが、これに代わって一定期間の実績をベースに、米の収穫状況に関係なく税率を一定にする「定免法」を採用。安定した税収入が見込める上に、毎年の収穫状況を調査する経費が削減できる。また、代官による不正の減少という効果もあった。
⑦足高の制 1723年
幕府官僚制は、家格が重視され、家格の高低がそのまま役職の高低となっていた。役職は家格で固定され、しかもそれが世襲されていた。そのため幕府の財政を圧迫していたと同時に、有為な人材の登用において隘路となっていた。つまり、たとえ優秀な人材がいたとしても家の格が低ければ、建前上は重要ポストに就けなかったのである。
こうした弊害を解消するために、役職に就けたい者の禄高が、役職ごとに定められた役高に達しない場合、その不足分を加増する制度を設けた。ただし、加増は在職中に限るため、役職を退任したら元の禄高に戻るとした。
この制度により、幕府財政の膨張を抑える効果と、才能のある少禄の者の要職登用が可能となった。
⑧新田開発
幕府は税収の増収策として商人資本を利用し、一定の利益を幕府と町人で分ける形で、町人請負新田の開発を積極的に進めていった。また、甘藷などの商品作物の栽培を奨励して畑地からの年貢増収を図るとともに、農民の生活の安定に繋げようとした。
⑨堂島米市場の公認 1730年
大坂堂島米市場は、その取引が全国の米価に影響を与えていた。幕府は、米市場の先物取引を公認して積極的に相場に介入した。大名や商人たちに米を買占めさせ、米の流通量を削減して米価の値上げを図るなど、米価統制を行った。
⑩元文丁銀の鋳造 1736年
緊縮財政を基本とする吉宗は、白石の良貨政策を継承していたが、市場に流通する通貨量は縮小していた。こうした通貨縮小による不況、および新田開発による増産などの影響で米価は低迷し、武士や農民は困窮していた。
町奉行大岡忠相や儒学者の荻生徂徠らは、貨幣流通量を適切に確保して物価の調整を図るためには、貨幣の品位を下げ、通貨の量を増やすしかないと吉宗に進言した。
吉宗はこうした意見を容れて貨幣の改鋳を行い、貨幣不足によるデフレを解消するとともに物価も安定し、経済活動を回復させた。
⑪公事方御定書 1742年
頻発する訴訟への対応のため、裁判の公平性の向上と迅速化を図り、これまでの判例集をまとめさせた。また、幕府の法令をまとめた「御触書寛保集成」を編纂させた。
⑫漢訳洋書輸入緩和
実学を重視した吉宗は、漢文に翻訳されたヨーロッパの書物の輸入を一部緩和した。それまではキリスト教が流入する恐れがあるため、ヨーロッパの書物の輸入は一律禁止とされていたが、実用書に限り禁を解いた。このことは蘭学が発達するきっかけとなった。後世、前野良沢や杉田玄白らの蘭学者が出てくるようになる。
⑬組織改革
綱吉以来続いた柳沢吉保・間部詮房・新井白石らによる側用人政治のため、幕政から排除された譜代大名らは、不満を強めていた。そこで吉宗は、譜代大名からなる老中・若年寄を重用するとともに、新たに側近である御用取次を設け、老中らと側近を巧みに使った。また、財政を専管する勝手掛老中を再び設置し、全国の耕地・人口を調査した。
⑭都市政策と文教政策
明暦の大火の教訓から、延焼を防ぐための広小路や火除明地を設け、火事対策として定火消に加えて町火消の整備を促した。
また、儒教の教えを奨励し、湯島聖堂にあった林家(林羅山を祖とする儒者の家系)の塾の講義を庶民にも聴講することを許可した。さらに室鳩巣に命じて儒教の徳目を説いた「六諭衍義大意」を作成させ、儒教による民衆教化に努めた。
⑮享保の飢饉(1732(享保17)年秋~翌年春)に対する幕府の対応
近畿・中国・四国および九州地方一帯を襲った飢饉。被災民265万人、餓死者1万2000人に達したという。