第二次世界大戦の勃発 ドイツ、ポーランドに侵攻 1939年
1939(昭和14)年9月1日、ドイツがポーランド侵攻を開始すると、9月3日、同国と同盟を結んでいたイギリス・フランスがただちにドイツに宣戦を布告し、第二次世界大戦が始まった。
第一次世界大戦の賠償金の支払いに苦しんでいたドイツは、1929年の世界恐慌後、さらに経済がひっ迫していた。
アメリカのニューディール政策、イギリス・フランスのブロック経済政策は、広大な領土もしくは多くの植民地を有するがゆえに可能な政策だった。
一方、植民地を持たないドイツは、ブロック経済に阻まれて国際貿易ができず経済的に苦しんでいた。
そうした状況を打開するために軍事力を強化し、領土の拡張のため露骨な海外侵略を行い、1938年にオーストリアを併合し、チェコスロバキアのズデーテン地方の割譲を要求。
1939年8月には独ソ不可侵条約を結び、翌9月ポーランドに侵攻、ついにイギリス・フランスと開戦し、第二次世界大戦が始まった。
以下、くわしく。興味のある方は、お読みください。
第一次世界大戦後、国際社会は戦争の予防に向けて様々な手立てを講じてきたにもかかわらず、第一次世界大戦の終結からわずか20年後に第二次世界大戦が勃発する。
1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻によってヨーロッパ大戦が始まり、アジアでは41年12月8日、日本の真珠湾攻撃によってアジア太平洋戦争が始まる。
大戦前夜のヨーロッパでは、1933年1月に誕生したナチス政権が同年10月に国際連盟を脱退し、軍備拡張を図るとともに、領土要求を主張するようになる。
領土拡張の標的はヴェルサイユ条約で失ったザールラント、ラインラントなど旧ドイツ領の「失地回復」であり、チェコスロバキア、ポーランドなど周辺国のドイツ系住民の居住地域であった。後者の場合、ドイツ系民族の保護を口実にした領土要求である。
第一次世界大戦後、ドイツはヴェルサイユ条約に基づき戦前の領土の20%を失う。
その結果、ポーランド領やチェコスロバキア領となり多くのドイツ人が留まったままになっている旧ドイツ領が領土併合の対象となった。
1935年1月、国際連盟監督下の自治地域であったザールラントで、その帰属をめぐる住民投票が行われ、圧倒的多数でドイツへの帰属が決まる。
同年3月、ドイツは再軍備宣言を行い、非武装地帯に定められていたラインラントへ進駐し、さらに38年4月、オーストリアを併合する。そしてヒトラーの狙いはチェコスロバキアとポーランドのドイツ系住民が居住する地域に向けられた。
ヒトラーはドイツ系住民の民族主義を煽り、チェコスロバキア・ズデーテン地方のドイツ人による民族自決を支持した。
1938年9月29日から30日にかけてドイツのミュンヘンで戦争回避に向けて独・英・仏・伊の四カ国首脳会談(ミュンヘン会談)が開催され、ズデーテンのドイツへの割譲が承認された。ちなみにこの時のドイツ以外の各国首脳は、イギリス・チェンバレン首相、フランス・ダラディエ首相、イタリア・ムッソリーニ首相だった。
11月、ドイツはズデーテンを併合し、15万人のチェコ系およびスロバキア系住民が他地域に強制移住させられた。翌39年3月にドイツは、ボヘミアおよびモラヴィアへ侵攻してこの地域を併合しチェコスロバキアは解体された。
続いてヒトラーの野望はポーランドに向けられる。ポーランドではドイツ系住民がポーランド政府に抵抗していたがポーランド政府は彼らを抑圧した。
こうした状況下でヒトラーは、ポーランドに対してドイツ系住民の保護を求めるとともに、バルト海に面したポーランド回廊、自由都市ダンツィヒ(現グダニスク)など「未回収地」の返還を要求したが、ポーランドはそれを拒否する。
そして同年9月、ドイツ人を保護する名目でドイツはついにポーランドに侵攻し、第二次世界大戦の火蓋が切って落とされたのである。