簡潔 橘奈良麻呂の変 藤原仲麻呂打倒計画 757年
奈良時代中期の757年、橘奈良麻呂らが藤原仲麻呂の打倒を企てたとして処罰された事件。
729年、藤原氏の陰謀によって長屋王が殺され、政権は名実ともに藤原氏のもとにかえった。しかし、737年天然痘が流行し、藤原氏の四家も相次いで倒れた。
そこで次期政権を担当したのが、藤原光明子の異父兄にあたる橘諸兄である。諸兄は、僧玄昉・吉備真備と結んで政権を獲得した。
その後、藤原広嗣が乱を起こすと乱鎮定後、聖武天皇は遷都を繰り返した。政情は混迷し、諸兄はしだいに藤原仲麻呂の勢力に押されていく。
仲麻呂は、光明皇后の信任を得て、勢力を伸ばし749年に聖武天皇が退位すると、左大臣の諸兄をしのぐ勢いとなっていた。
757年、諸兄が亡くなると、その子の奈良麻呂は、同志を募り仲麻呂打倒を計画するが、密告により発覚し捕えられ獄死した。この乱を平定した仲麻呂が政権を掌握した。