清州会議 羽柴秀吉が重臣筆頭の地位を占める 1582年

2023年4月30日

1582年6月27日(旧暦)に開かれた、織田家の継嗣問題と領地再分配に関する会議。後継者選びの争いを制した羽柴秀吉は織田家重臣筆頭の地位を確実にした。

三法師を擁する秀吉~清洲会議の一場面(絵本太閤記)/日本城郭資料館所蔵 Wikipediaより

会議には、織田家の重臣である柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人が出席した。この会議が開かれた段階では、家督相続の有資格者として、織田信長の次男信雄、三男信孝、信長の嫡男信忠の嫡子三法師がおり、この三人の中から家督相続者が選ばれることになった。

柴田勝家は三男の信孝を推挙し、羽柴秀吉は三法師(後の織田秀信)を推した。論争の結果、長老で家臣の信任厚い丹羽長秀が、秀吉の長子相続の筋目論(三法師の推挙)を支持したことで三法師が信長の後継者に決まった。

こうして主君の仇討ちを果たし意気上がる秀吉が、後継者選びの争いも制した。これによって、それまで織田家の筆頭として最大の発言権を持っていた柴田勝家の影響力が低下し、代わりに秀吉が重臣筆頭の地位を占めるなど、織田家内部の勢力図が大きく塗り変えられることになった。本能寺の変からわずか1か月足らずのことである。

清州会議で勝利した秀吉は、その後執り行われた信長の葬儀に際して、喪主に信長の四男で自分の養子にしていた羽柴秀勝を立て、自らが信長の実質的な後継者であることを世間に向けてアピールしている。

これに対し信長の三男・信孝は柴田勝家、さらには会議に出席できなかった重臣・滝川一益を味方につけて反秀吉勢力をつくる。
これによって織田家内部での争いは決定的となる。最終的には清州会議での決定も破棄され、勝家を除く秀吉、長秀、恒興の三人によって信長の次男・信雄が織田家の家督を継ぐ。これによって秀吉と勝家の対立は決定的なものとなり、賤ヶ岳の戦いへとつながっていく。



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Posted by kojiro