羽柴秀吉、中国大返し 1582年

2023年4月30日

主君・織田信長死亡の報を受けた羽柴秀吉が、信長を討った明智光秀討伐のために、常識を超える早さで京都へ向け引き返した。

本能寺の変が勃発したとき、羽柴秀吉は毛利方の清水宗治が守る備中高松城(岡山市)を水攻めで包囲していた。城を孤立させることで兵糧を断ち、兵の士気を削ごうとする秀吉得意の作戦だった。対する毛利方も、毛利輝元自らが出陣し秀吉と対峙していた。
そこへ本能寺で織田信長が明智光秀に討たれたという情報が入る。秀吉は、主君信長の仇を討つべく光秀討伐のために、京都へ引き返すことを決断する。それは、信長亡き後の自らの立場を優位にするものであった。

そこで秀吉は、信長死亡の情報が毛利方に漏洩する前に、和睦することを決める。このとき、輝元と秀吉の交渉役を勤めたのが、毛利家の外交顧問である僧の安国寺恵瓊だった。和睦の条件は、備中3ヵ国の譲渡と宗治の自刃、代わりに城兵の命は助けるというものだった。

毛利方と和睦した秀吉は、宗治の切腹を見届けると素早く軍勢を進め、本能寺の変発生からわずか10日で摂津富田(大阪市高槻市)へ到着し、丹羽長秀などの軍勢と合流した。

一方、光秀は友人の細川藤孝や藤孝の嫡男で娘婿細川忠興、筒井順慶などに援軍を求めるが拒絶され、苦しい立場におかれた。

秀吉が摂津富田に到着した翌日、山城国山崎(京都府大山崎町)の天王山東麓で、羽柴軍と明智軍は交戦に入り、秀吉がこの戦いに勝利した。

光秀は近江に逃れる途中で襲われて命を落とした。これを山崎の戦いといい、合戦のあった山の名前から、大一番の決戦を天王山というようになった。



室町・織豊

Posted by kojiro