観応の擾乱 経過 第3幕 足利直義の死亡で擾乱終息
一旦は平穏が戻ったものの幕府内部では直義派と反直義派との対立構造は存在したままで、両派の衝突が避けられない状況になっていった。
そんな中、近江の佐々木道誉や播磨の赤松則祐らが南朝と通じて尊氏から離反したことにして、尊氏は近江へ、義詮は播磨へそれぞれ出兵して、東西から直義を挟撃する態勢を整えた。
8月直義は自派の武将を伴って京都を脱出し、北陸・信濃を経て鎌倉へ至った。直義派が関東・北陸・山陰を抑え、西国では直義の養子直冬が勢力を伸張している状況を見て、尊氏は南朝方と交渉し、和議の提案と直義・直冬追討の綸旨を要請する。
南朝方は、北朝方が保持していた三種の神器(南朝方は贋物であると主張)の譲渡と政権を返上する事などを条件に和睦に応じ、10月には尊氏は南朝に降伏して綸旨を得る。
綸旨を得た尊氏は、直義追討の為に出陣し、翌1352年には直義を相模国早川尻などの戦いで破って鎌倉に追い込み降伏させる。
鎌倉に幽閉された直義は2月に急死する。毒殺されたとの説もあるが、真実は不明である。
この直義の死をもって、擾乱に終止符が打たれた。しかしこの後も、尊氏派(幕府)、旧直義派、南朝勢力の三者が、10年余りもそれぞれ離合集散を繰り返した。
記事参考:jiyodan.exblog.jp