観応の擾乱 経過 第2幕
1349年12月、上杉重能と畠山直宗が配流先で高師直の配下に暗殺される事件が起こり、足利直義派と師直派の緊張が再び高まった。
事件を知った長門探題である直義の養子足利直冬が、直義援護のために上洛しようとしたが、幕府の討伐軍により直冬は九州に敗走する。しかし直冬は九州にいる南朝方の武士達に迎えられ九州・中国地方に勢力を拡大していく。
1350年10月、尊氏は直冬討伐のために自ら出陣する。その留守を衝いて直義は京都を脱出し大和に向かい、現地の兵力を援軍に付けて決起した。11月、北朝の光厳上皇による直義追討令が出される。12月、直義は南朝方に降り、尊氏と高師直・師泰兄弟との勢力に対抗する。観応の擾乱の勃発である。
1351年1月、直義軍は京都に進撃し、足利義詮を追放する。
同年2月、中国地方にいた尊氏軍は京都を目指すが、途中直義軍に敗れ、尊氏は高師直・師泰兄弟の出家を条件に直義と和睦する。
しかし、高兄弟は摂津から京都への護送中に、直義派の上杉能憲(師直に殺害された重能の養子)の軍勢により、摂津の武庫川で謀殺された。これにより、直義は義詮の補佐として政務に復帰した。
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記事参考:jiyodan.exblog.jp